第304回 備後国辰房国重作 を考察する。 2017年10月7日土曜日
この投稿文は筆者が以前自ら歩いて調査した事を論文にまとめていたものを
投稿と言う形で少しずつ世間に紹介して行くものである。
当時の写真や資料を再度上から撮影していたりして、見苦しい箇所については
御寛恕をお願いしたい。
【 辰房屋敷址付近から、広島県 尾道大橋を撮影する。 】
第280回から、岡山県井原市、梁市、真庭市 北房町、新見市、広島県
尾道市、福山市周辺で作刀していた 備中国 国重刀工の調査のお話しを
少しずつ紹介していて、 興味のある人には よかったら 初めからの閲覧を
お薦めする次第である。
【 参考刀 備州辰房国重作 大永七年【1527年】八月日 】
前話 第303話では、室町時代 大永六年の秋頃、備後国 大田庄 尾道港
の寺院の自治領の大まかな紹介を、昭和10年 1935年の広島県 尾道市役所
の当時の調査報告を基にして、 みなさんに地図で位置的なことを紹介させてい
ただいたのである。
【 広島県 尾道市の駅前の様子 】
「 現在の尾道市の中心はどこですか。」 と問うと、多くの市民が、「 そりゃー
尾道駅前よう。」 とか、「 新幹線が止まる、新尾道駅じゃろう。」 と言う人が
【 広島県尾道市の尾道港のターミナルビル 】
多いと思うが、 室町時代はどうであったかと言うと、 そうではなく、 大田の庄
尾道港の中心地は、現在の長江【ながえ】1丁目から十四日元町【とよひもとまち】
であったのである。
【 広島県 尾道市 長江1丁目 西詰 長江口 】
この現在の長江口という交差点が 室町時代の尾道港の繁華街の中心で
前話で紹介したように、 現在の 尾道市立長江中学校 つまり、長江3丁目
から 現在の ラーメンで有名な 朱華園 の前あたりに、 当時川が流れて
【 室町時代の当時 長江の通り沿いに川があった。】
いて、 左右に 倉敷と呼ばれる場所があり、倉が多く建ち並び、世羅町や
甲山町周辺から運ばれてきた、年貢の穀物が保管され、港から いろんな所に
海路はこばれていたと言い伝えがあるのである。
【 山陽本線の下あたりが 其阿弥 清兵衛 宅 付近 】
今は知る人は少なくなったが、長江交差点を今からそうーー18年程前
尾道市役所の維持課が 道路改良する時に、 向東町の建設会社 (株)川一
という業者が請け負い、 当時東側に 公園があったのを取り壊し、 駐車場に
して、 それ以前には、北山というフランス料理店があり、【現在は尾道大橋の西下
移転。】、その横には、 尾道市の消防署があったのである。
【 昔は 北から順番に公園、北山【フランス料理店】、尾道消防署があった。 】
尾道市の消防署は、十四日元町から、 尾道バイパス添いの栗原町に40年程前
に移転し、 その後、現在は東尾道に移転している。
【 尾道市長江交差点西詰の 刀鍛冶発祥地の石柱 】
話は戻って、 この交差点を道路改良する時に、 ここにオブジェを置く計画が
あり、 その後、 刀鍛冶発祥の地 という 石柱が建柱されたのである。
実は、江戸時代の絵図と、現在の絵図を比較すると、 この場所ではなくて、
この石柱から 北に50メートル程度、 千光寺山に進んだところが、江戸時代の
鍛冶町の其阿弥家があった場所で、 以前紹介した 其阿弥【ごあみ】 清兵衛
さんの仕事場があったそうである。
ここから、対馬の其阿弥家、 広島の其阿弥家、三次の其阿弥家と分家が
出ていった、元祖の場所である。
その場所を調査すると、 山陽本線の中あたりになるので、ここに当時標柱
を 建柱する事にしたらしい。
筆者が調査すると、 当時 この長江の付近には、 五阿弥秀次 という刀工や、
五阿弥 秀行 という刀工や、 其阿弥 胡 信行 という刀工がいたようである。
おそらく 名前からして、一家で 小規模な工房であったと考えられる。
つまり 同じ時期の三原鍛冶や、祐定や、清光の工房からすると、10分の1
以下の規模であったと思われる。
そして、この長江交差点から 東に400メートル程度進むと、尾崎町という
場所があって、浄土寺の東南の海岸沿いに当時 辰房屋敷 という寺院の建物
があって、 ここが当時の 辰房の刀剣工房で、 ここに 国重刀工が 手伝いで
やってきて、 御刀を作っていたと推測される。
【 浄土寺の辰の方角、 東南方向に 辰房屋敷 があった。】
当時の 石工や鍛冶屋など尾道港の産業は、そのすべてが港に面した海岸
沿いに集まっており、 これらは、江戸時代、室町時代と共通していて、理由は
船への積み込みが容易で、製品を積み出しするのが便利であったためと思
われる。
この浄土寺の前の港は由緒があって、 建武3年5月5日には、足利 尊氏
公 や、 足利 直義公が上陸した記録が浄土寺の古文書から確認出来、
室町時代は、 現在の 尾崎にも 荷の積み卸しの港があったようである。
当時の 作品から 刀工を調査すると、 ①辰房 重俊 ② 辰房 重友
③ 辰房 重則 ④ 辰房 重延 ⑤ 辰房 重家 ⑥ 辰房 則重 ⑦辰房 重正
⑧ 辰房 重行 ⑨ 辰房 重近 ⑩ 辰房 国重 という作品が残されているので
ある。
この辰房屋敷の刀剣工房、当時 其阿弥刀工の工房の規模の3倍程度の
生産力を有していたが、 それ以前は、3名程度の小規模な工房で、 杉原氏
の注文による特需をさばくために、 お寺の連絡網を使用して、 過去に辰房屋敷
で仕事を行った経験者の僧侶や、 その一門を呼び寄せて、 増産体制に入った
時が、大永六年【1526年】の秋頃と思われる。
こうして現地を歩いて、 御刀だけを考察するのでなくして、 幅を広げて
考えていくと、 以前紹介した 江戸時代 享和三年の尾道の儒学者 勝島維恭
先生が当時、「 尾道のお寺の古文書や石碑、いろんな物を調べたが、辰房 と
いう刀鍛冶の文字が、名字なのか、地名なのか、または 別物か、証拠がまったく
残っておらず、不明であって、 あえて 推測すれば 辰房とは 称号のような
文字だったのではないか。」 と、本に書いてあるのであるが、 長い間、刀剣の
世界では、辰房 と書いて、 たつぼう と読んだり、 しんぼう と発音したりして
誰も詳しい真実を研究して 明らかにしようとしなかった。
昭和から、いろんな人が調査を重ねていき、 大東亜戦争と戦後の混乱期で忘れ
去られた調査記録を読んで総合してみると、 萩藩閥閲錄遺漏 という古文書に
大永六年【 1526年】霜月【旧暦の11月】 つまり、国重刀工が、備中国荏原庄
から、備後国大田庄尾道港にやって来た当時の古文書が残っていて、 その中に
辰房屋敷 という文字が確認出来、 辰房屋敷とは、寺院の建物 房【ぼう】の
名称で、 辰の方角 つまり 東南の方向にある 寺院の建物の名前であった
という証明がなされて、 辰房屋敷は たつみのぼう やしき と発音するのが
正しい当時の読み方である。
【 当時は、現在の道路付近が海岸であったと思われる。】
この古文書の内容を解読すると、木梨庄 杉原氏から 高須杉原氏の
高須中務太夫 杉原 元胤 宛に送られた文章で、内容を吟味すると、数回
に渡って紹介してきた 当時の備後国の世相とまったく合致する内容で、
その文章は信憑性が高いと考えているのである。
国重刀工は、 備後国 大田庄【おおたのしょう】 尾道港 の辰房屋敷
【たつみのぼうやしき】の 寺院の刀剣工房で 他の9名の銘を切る刀工と
その補助をする僧侶または、職人と一緒に、 おそらく30名程度の人達と
一緒に 大永六年の秋頃から 刀を作ることになって行ったようである。
このような経緯で、 古国重と呼ばれる 国重刀工の最新の研究では、昭和の
終わりまで定説であった、 「国重刀工は 辰房刀工群の出身でーー云々。」と
言うお話しは 誤りで、 備中国荏原庄【えばらのしょう】の刀工で、その子息が、
辰房派の僧侶と一緒に、 特需で日本刀を増産することに迫られていた 辰房
屋敷に手伝いに行ったというのが最新の正しい説である。
今週のお話しはここまでである。
【 来週に続く。】