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Channel: 納屋助左衛門の古美術、刀剣の広場
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第304回 日本刀 備後国辰房国重作 を考察する。 納屋 助左衛門

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第304回 備後国辰房国重作 を考察する。 2017年10月7日土曜日





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 この投稿文は筆者が以前自ら歩いて調査した事を論文にまとめていたものを

投稿と言う形で少しずつ世間に紹介して行くものである。

当時の写真や資料を再度上から撮影していたりして、見苦しい箇所については

御寛恕をお願いしたい。




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         【 辰房屋敷址付近から、広島県 尾道大橋を撮影する。 】




  第280回から、岡山県井原市、梁市、真庭市 北房町、新見市、広島県

  尾道市、福山市周辺で作刀していた 備中国 国重刀工の調査のお話しを

  少しずつ紹介していて、 興味のある人には よかったら 初めからの閲覧を

  お薦めする次第である。



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        【 参考刀 備州辰房国重作  大永七年【1527年】八月日 】



   前話 第303話では、室町時代 大永六年の秋頃、備後国 大田庄 尾道港

 の寺院の自治領の大まかな紹介を、昭和10年 1935年の広島県 尾道市役所

 の当時の調査報告を基にして、 みなさんに地図で位置的なことを紹介させてい

 ただいたのである。



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                 【 広島県 尾道市の駅前の様子 】
          


  「 現在の尾道市の中心はどこですか。」 と問うと、多くの市民が、「 そりゃー

 尾道駅前よう。」 とか、「 新幹線が止まる、新尾道駅じゃろう。」 と言う人が



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              【 広島県尾道市の尾道港のターミナルビル 】



 多いと思うが、 室町時代はどうであったかと言うと、 そうではなく、 大田の庄

 尾道港の中心地は、現在の長江【ながえ】1丁目から十四日元町【とよひもとまち】

 であったのである。



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         【 広島県 尾道市 長江1丁目 西詰 長江口 】





  この現在の長江口という交差点が 室町時代の尾道港の繁華街の中心で

前話で紹介したように、 現在の 尾道市立長江中学校 つまり、長江3丁目

から 現在の ラーメンで有名な 朱華園 の前あたりに、 当時川が流れて


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          【  室町時代の当時 長江の通り沿いに川があった。】




 いて、 左右に 倉敷と呼ばれる場所があり、倉が多く建ち並び、世羅町や

甲山町周辺から運ばれてきた、年貢の穀物が保管され、港から いろんな所に

海路はこばれていたと言い伝えがあるのである。



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        【 山陽本線の下あたりが 其阿弥 清兵衛 宅 付近 】



   今は知る人は少なくなったが、長江交差点を今からそうーー18年程前

尾道市役所の維持課が 道路改良する時に、 向東町の建設会社 (株)川一

という業者が請け負い、 当時東側に 公園があったのを取り壊し、 駐車場に

して、 それ以前には、北山というフランス料理店があり、【現在は尾道大橋の西下

移転。】、その横には、 尾道市の消防署があったのである。


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【 昔は 北から順番に公園、北山【フランス料理店】、尾道消防署があった。 】




尾道市の消防署は、十四日元町から、 尾道バイパス添いの栗原町に40年程前

に移転し、 その後、現在は東尾道に移転している。


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        【 尾道市長江交差点西詰の 刀鍛冶発祥地の石柱 】





 話は戻って、 この交差点を道路改良する時に、 ここにオブジェを置く計画が

あり、 その後、 刀鍛冶発祥の地 という 石柱が建柱されたのである。

実は、江戸時代の絵図と、現在の絵図を比較すると、 この場所ではなくて、

この石柱から 北に50メートル程度、 千光寺山に進んだところが、江戸時代の

鍛冶町の其阿弥家があった場所で、 以前紹介した 其阿弥【ごあみ】 清兵衛 

さんの仕事場があったそうである。

ここから、対馬の其阿弥家、 広島の其阿弥家、三次の其阿弥家と分家が

出ていった、元祖の場所である。


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  その場所を調査すると、 山陽本線の中あたりになるので、ここに当時標柱

 を 建柱する事にしたらしい。

 筆者が調査すると、 当時 この長江の付近には、 五阿弥秀次 という刀工や、

 五阿弥 秀行 という刀工や、 其阿弥 胡 信行 という刀工がいたようである。

 おそらく 名前からして、一家で 小規模な工房であったと考えられる。

 つまり 同じ時期の三原鍛冶や、祐定や、清光の工房からすると、10分の1

 以下の規模であったと思われる。


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   そして、この長江交差点から 東に400メートル程度進むと、尾崎町という

場所があって、浄土寺の東南の海岸沿いに当時 辰房屋敷 という寺院の建物

があって、 ここが当時の 辰房の刀剣工房で、 ここに 国重刀工が 手伝いで

やってきて、 御刀を作っていたと推測される。



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        【 浄土寺の辰の方角、 東南方向に 辰房屋敷 があった。】


 当時の 石工や鍛冶屋など尾道港の産業は、そのすべてが港に面した海岸

沿いに集まっており、 これらは、江戸時代、室町時代と共通していて、理由は

船への積み込みが容易で、製品を積み出しするのが便利であったためと思

われる。



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  この浄土寺の前の港は由緒があって、 建武3年5月5日には、足利 尊氏

 公 や、 足利 直義公が上陸した記録が浄土寺の古文書から確認出来、

 室町時代は、 現在の 尾崎にも 荷の積み卸しの港があったようである。

 当時の 作品から 刀工を調査すると、 ①辰房 重俊 ② 辰房 重友

③ 辰房 重則 ④ 辰房 重延 ⑤ 辰房 重家 ⑥ 辰房 則重 ⑦辰房 重正

⑧ 辰房 重行 ⑨ 辰房 重近 ⑩ 辰房 国重 という作品が残されているので

ある。


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  この辰房屋敷の刀剣工房、当時 其阿弥刀工の工房の規模の3倍程度の

生産力を有していたが、 それ以前は、3名程度の小規模な工房で、 杉原氏

の注文による特需をさばくために、 お寺の連絡網を使用して、 過去に辰房屋敷

で仕事を行った経験者の僧侶や、 その一門を呼び寄せて、 増産体制に入った

時が、大永六年【1526年】の秋頃と思われる。


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  こうして現地を歩いて、 御刀だけを考察するのでなくして、 幅を広げて

 考えていくと、 以前紹介した 江戸時代 享和三年の尾道の儒学者 勝島維恭

 先生が当時、「 尾道のお寺の古文書や石碑、いろんな物を調べたが、辰房 と

 いう刀鍛冶の文字が、名字なのか、地名なのか、または 別物か、証拠がまったく

 残っておらず、不明であって、 あえて 推測すれば 辰房とは 称号のような

 文字だったのではないか。」 と、本に書いてあるのであるが、 長い間、刀剣の

 世界では、辰房 と書いて、 たつぼう と読んだり、 しんぼう と発音したりして

 誰も詳しい真実を研究して 明らかにしようとしなかった。

 昭和から、いろんな人が調査を重ねていき、 大東亜戦争と戦後の混乱期で忘れ

 去られた調査記録を読んで総合してみると、 萩藩閥閲錄遺漏 という古文書に

 大永六年【 1526年】霜月【旧暦の11月】 つまり、国重刀工が、備中国荏原庄

 から、備後国大田庄尾道港にやって来た当時の古文書が残っていて、 その中に

 辰房屋敷 という文字が確認出来、 辰房屋敷とは、寺院の建物 房【ぼう】の

 名称で、 辰の方角 つまり 東南の方向にある 寺院の建物の名前であった

 という証明がなされて、 辰房屋敷は たつみのぼう やしき と発音するのが

 正しい当時の読み方である。


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         【  当時は、現在の道路付近が海岸であったと思われる。】


  

  この古文書の内容を解読すると、木梨庄 杉原氏から 高須杉原氏の

高須中務太夫  杉原 元胤 宛に送られた文章で、内容を吟味すると、数回

に渡って紹介してきた 当時の備後国の世相とまったく合致する内容で、

その文章は信憑性が高いと考えているのである。

 
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   国重刀工は、 備後国 大田庄【おおたのしょう】 尾道港 の辰房屋敷

 【たつみのぼうやしき】の 寺院の刀剣工房で 他の9名の銘を切る刀工と

その補助をする僧侶または、職人と一緒に、 おそらく30名程度の人達と

一緒に 大永六年の秋頃から 刀を作ることになって行ったようである。

 このような経緯で、 古国重と呼ばれる 国重刀工の最新の研究では、昭和の

終わりまで定説であった、 「国重刀工は 辰房刀工群の出身でーー云々。」と

言うお話しは 誤りで、 備中国荏原庄【えばらのしょう】の刀工で、その子息が、

辰房派の僧侶と一緒に、 特需で日本刀を増産することに迫られていた 辰房

屋敷に手伝いに行ったというのが最新の正しい説である。



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                     今週のお話しはここまでである。


    【 来週に続く。】



第305回 日本刀 備中国荏原住辰房国重作を考察する。納屋 助左衛門

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第305回 備中国荏原住辰房国重作の御刀を考察する。

                         2017年10月14日土曜日




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 この投稿文は、以前筆者が自ら歩いて調査した事を論文にまとめていたものを

少しずつ投稿と言う形で世間に公開していくもので、当時の写真や資料を再度上

から撮影していて、見苦しい箇所については御寛恕をお願いしたい。




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               【 広島県尾道市の千光寺山 全景 】



  第280回から、岡山県井原市、梁市、真庭市、北房町、新見市、広島県

 尾道市、福山市などで作刀いしていた国重刀工の調査したことを紹介していて

 興味のある人には、初めから閲覧をお勧めする。




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          【 広島県尾道市は寺院の自治領で、お寺が多かった。】



  備中国荏原【えばら】からやって来た 国重刀工の兄弟、 次郎と三郎は、

 大永六年【1526年】の秋前後に 備後国尾道港の お寺の建物の辰房屋敷

 で作刀を開始し、 大永七年、 大永八年 という 年期のある作品が残されて

 いて、おおよそ2年間、 辰房屋敷【たつみのぼう やしき】で作業していたと

 現在推測されているのである。



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            【 参考刀 備州辰房国重作  大永七年八月日 】




   ところで、この大永七年頃、 当時の備後国の北部、 守護代の山内氏の

  内紛を煽り、 軍事介入を行って、備後国の北部、現在の広島県庄原市付近

  に勢力を拡大していた、出雲国 尼子氏の軍勢の勢力は、 西の周防国の

  大内氏の軍勢が備後国の北部に進出し、 一旦 尼子氏と手を結んでいた

  備後国 木梨庄の杉原氏一族は、再び、大内氏の配下に入り、 その後

  細沢山の戦いという、 大内氏の連合軍と、尼子氏の連合軍が激突する


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           【室町時代の大永七年頃の備後国の勢力分布図 】



   武力衝突事件があって、 刀剣の特需を生み出し、 伝えられる話では、

 この細沢山の合戦で、 大内方が部分的に合戦に勝利し、尼子氏方は、出雲に

 兵を引いたと伝えられていて、 尾道港の周辺の木梨庄の杉原氏一派も、勝った

 方に、馬を乗り換えたような状態となり、 尼子 経久 から見ると、裏切った状態

 となっていったらしいのである。

 この大永七年の出来事が、尼子氏は、杉原氏を目の敵にするようになって行き、

 後に、杉原氏滅亡の原因となって行ったそうである。

 今日のお話は、 備中国荏原住辰房国重作 享禄二年八月日 という国重刀工

 の作品についてお話しをさせていただく。



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             【 参考刀  備州辰房国重作 大永七年八月日】
 

 ① 大永 六年 【1526年】

 ② 大永 七年 【1527年】

 ③ 大永 八年 こと 享禄【きょうろく】元年 【 1528年】

 ④ 享禄二年 【1529年】

 ⑤ 享禄三年 【1530年】

 ④ 享禄四年 【1531年】

 ⑤ 享禄五年 【1532年】こと 天文元年

近代の明治初頭から昭和の終わり63年頃まで、 備中国荏原住辰房国重作

享禄二年八月日 という作品を研究して、多くの研究者が、「辰房派から発生した

国重刀工は、後に備中国荏原に移住してーー云々。」 という説を唱えていた

これを、「 国重刀工 荏原移住説。」と呼ぶ。


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          【 備中国荏原庄  現在の岡山県井原市 東荏原 】



当時、 大永六年の年期がある 備中国荏原住人国重作 という作品があること

が確認され、 実は、荏原にすでにいた刀工 国重が尾道に行って、その後、

再度、享禄二年には、また 荏原に戻っていた当時、 辰房という文字を刀身の

なかこ゜に 切っていた事から、 弟子入りしていたのではないかというお話しが、

当時の 財団法人 日本美術刀剣保存協会の岡山支部の 中津 勝巳 氏より

提議され、 「 国重刀工の尾道の辰房弟子入り説。」 となって行ったのである。

平成の現在、 これらを検証していくと、 約2年程度、尾道の辰房屋敷で作業し、

大永七年頃から 刀身のなかごに 辰房 と文字を入れるようになっていった様で

屋号 的な意味合いか、 称号のような 一門を示す 当時の国重刀工の立場から

みると、一門に加えてもらった 名誉な称号の 辰房 という文字を切ることがゆる

されて、 以後、 尾道を離れても 作品に 辰房と切っていたことがわかる作品で

ある。




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                 【 明治初期の 尾道水道 吉和村付近 】


  興味深い事に、享禄五年【1532年】 天文元年同年の年期で、備後尾道住

 辰房国重 という作品が確認されていて、 大量注文があったから呼出に応じて

 尾道に出張していたのか、4年後にはまた、尾道で作刀していたと思われる。

 これが、別人で 同銘であったのではないかとか、 国重刀工が尾道と荏原を

 往復していたのではないかとか、 それから、 次郎と三郎のどちらかが、尾道と

 荏原で別れて作刀していたのではないかとか、 いろんな推測が行われ、調査が

 高い壁に遮られ、 それから研究が進んでいないのが現状である。

 同年、 備中国荏原住辰房三郎左衛門国重 という作品が確認されていて、

 おそらく推測ながら、 弟の三郎の作品と思われ、 弟の三郎も辰房と文字を

 入れているところから、 初代 国重の 左太郎が、大永六年に亡くなり、同年

 次郎と三郎が備後国尾道港の辰房屋敷で作刀し、 弟の三郎も 辰房という文字

 を使うことを許されていた証拠の作品と考えている。

 

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         【 辰房屋敷があったと思われる 広島県尾道市尾崎町 】


  しかしながら、系図に登場する 四郎の作品では 辰房の文字が今のところ

 確認されておらず、 もしかすると出て来るかも知れぬが、 現状では、次郎と

 三郎の二人が 辰房と作品のなかごに文字を切っていたと言う事実から、辰房

 と銘を切る備後国の寺院の配下の刀工群の末席の刀工と言う立場ではなかった

 のであろうかと推測している。


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       【 荏原女国重刀工宅跡の石柱  岡山県井原市平井 】 
           

  こうして、国重 という銘を切る、刀剣界で、古国重 と呼ばれる刀工

 の作品は、 初代 左太郎国重 そして 2代目の時代の 次郎 国重、

 三郎国重、 四郎国重 の世代となり、 天文【てんもん】と言う戦国時代の

 動乱の時期に突入していき、 彼等が訪れていた 備後国や、住んでいた

 備中国荏原庄も、 尼子氏の軍勢が再度攻め寄せ、おおきな混乱の世に

 なっていくのである。



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                   今週のお話しはここまでである。



         【来週に続く。】


第306回 日本刀 備中国荏原住国重刀工の天文時代初期を考察する。納屋助左衛門

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第306回 備中国荏原住国重刀工の天文時代初期を考察する。

                        2017年10月22日日曜日




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 この投稿文は、筆者が以前自ら歩いて調査していた事を論文にまとめていた

ものを投稿と言う形で少しずつ世間に紹介するものである。

当時の写真や資料を再度上から撮影していたりして、見苦しい箇所については

御寛恕をお願いしたい。



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  第280回から、岡山県 井原市で作刀していた 国重刀工の調査のお話しを

紹介していて、 興味のある人にはよかったら初めから閲覧する事をお薦めする。




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   室町時代の 大永の後半の、大永七年から大永八年頃、備後国尾道港

の辰房屋敷 【たつみのぼう やしき】で作刀していた、国重刀工の次郎と三郎

兄弟は、辰房屋敷の認められた刀工の称号、 辰房 という文字を刀のなかごに

切る事を許され、 備中国 荏原の鍛冶屋畑と呼ばれる河川敷の村に帰った

と言われているのである。


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    現在の岡山県井原市の東、 平井の南側の小田川の河川敷に室町時代

  足利幕府の将軍家の取次衆の伊勢氏の分家があり、 この伊勢氏の所領の

  東荏原庄 【ひがしえばらのしょう】という場所であったと言われている。


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    【 遠い昔の室町時代の天文の頃、ここの河川敷に村があったらしい。】


  ① 大永六年 【1526年】  備中国 荏原で作刀

  ② 大永七年 【1527年】  備後国 尾道港で作刀
 
  ③ 大永八年 こと 享禄【きょうろく】元年【1528年】 備後国尾道港で作刀 

  ④ 享禄二年 【1529年】  備中国 荏原で作刀

  ⑤ 享禄三年 【1530年】  備中国 荏原で作刀

  ⑥ 享禄四年 【1531年】  備中国 荏原で作刀

  ⑦ 享禄五年 こと 天文元年 【1532年】  備後国尾道港で作刀  

  ⑧ 天文二年 【1533年】 備中国 荏原で作刀

  ⑨ 天文三年 【1534年】 備中国 荏原で作刀 

  ⑩ 天文四年 【1535年】 備中国 荏原で作刀


おおよそ 初代国重の 左太郎国重が大永六年に亡くなったという

お話しを本当と仮定すると、10年間は、2代目国重三兄弟の時代と

されていて、 次郎、 三郎、四郎 の3人であったと言われている。

おそらく推測ながら、 長男の 太郎と言う人がいたに違いないと筆者は

考えていて、もしかしたら 早く子供の頃に亡くなったのか、それとも、もしか

すると、伊予国から、備中国に逃げる途中、落命したのかもしれぬ。

その作品は、 備中国荏原住辰房次郎左衛門尉国重

         備中国荏原住辰房三郎左衛門尉国重

          
 と銘があると言うが、筆者は、未だに作品は鑑刀したことはない。

 どこかに、あるのだろうと思ってはいるが、なかなか その機会がない。



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    【 国重刀工が暮らしていたと伝えられている 鍛冶屋畑の河原 】





      ちょうど、 天文の初期頃、大内勢に大敗した、出雲国の尼子 経久が

   軍勢を また 備後国、備中国に向け、 調略や、軍事侵攻を繰り返すように

   なていき、 だんだん この地方は戦乱の世になって行くのである。



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              【 備後国 銀山城跡  広島県 福山市山手町 】


  ちょうど 天文元年から 数年の間に、 備後国の守護職 山名 忠勝が、

  尼子氏と同盟を結んだと言われていて、 国重刀工の住む、荏原庄の西、

  10キロ程先の神辺城付近が、尼子氏の勢力圏となり、 その西の芦田川

  をはさんで西の備後国山手庄の銀山城の城主 杉原 理興【まさおき】と

  対立するようになっていったと言われている。

  数話前に紹介したが、 これには諸説があるが、この地方の歴史書の添って

  いまは、理興は、杉原氏の出身として紹介しておく。

  理興を山名氏の出身とする説も近年提案されているが、証拠が不足した
 
  一方的なお話しが一人歩きしているようである。



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         【 天文初期頃の 備後国と備中国の勢力図 】



  当時、備後国のほとんどは、山口県の大内氏の勢力圏内で、杉原氏も

一度は、尼子氏と結んだ同盟を破棄して、 また 大内氏の勢力に取り込ま

れていたようで、 そこに来て、 備後国神辺城の 山名 忠勝 が、尼子方となり、

そして、大内氏は、杉原 理興 に 山名 忠勝を討伐するよう命じ、ここに神辺の

合戦が始まることになって行ったと言われている。



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    尼子氏は、 備中国の新見氏や、三村氏、庄氏を調略して、同盟を結び

  備中国 守護職 鴨方城の細川氏を圧迫していったと言われていて、当時

  室町幕府の守護職が相次いで滅んでいき、 戦国乱世の時代に入っていった

  ようである。

  ところで問題の国重刀工の住んでいた領地を治めていた 伊勢氏はどうで

 あったのかと言うと 鴨方城の細川氏についていたようで、 だんだん荏原庄

 に、戦雲が漂っていったようである。 


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    この伊勢氏の滅亡というか、 没落と、 そして国重刀工の作刀とは

    横でつながっていて、 次回は そのあたりの研究の紹介をしたいと

    考えている。


    【 来週に続く。】


第307回 備中国東荏原庄の伊勢氏の衰退と国重刀工を考察する。納屋 助左衛門

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第307回 備中国東荏原庄の伊勢氏の衰退と国重刀工を考察する。


                         2017年10月28日土曜日



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    この投稿文は、筆者が以前自ら歩いて調査した事を論文にまとめていた

 ものを少しずつ投稿と言う形で世間に紹介していくものである。

当時の資料や写真を再度上から撮影していたりして、見苦しい箇所については

御寛恕をお願いしたい。




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                  【 参考刀 備中国荏原住国重作 】



  第280回より、岡山県井原市で作刀していた、備中国荏原住国重刀工の

調査のお話しを紹介していて、 興味のある人にはよかったら初めから閲覧を

お薦めする。






  ここ数回、 備後国と、備中国の大永六年から天文の初頭にかけての政治情勢

などについて紹介してきたのであるが、本日のお話しは、 天文時代の初頭に、

国重刀工の2代目あたりが暮らしていた当時の東荏原庄の領主 伊勢氏の滅亡と

いうか、衰退していった事を調査した事を紹介したい。



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           【 当時の東荏原庄  現在の岡山県井原市東部付近 】




 以前紹介したように、 鎌倉時代は 那須氏、 室町時代は 伊勢氏の領地で

あった 国重刀工の居住地、 河川敷の村の鍛冶屋畑は、天文頃、伊勢氏が

ほぼ滅亡し、 国重刀工の住んでいた地域が焼き払われ、 戦闘行為の行われる

合戦の場となっていった様である。

 当時、「 伊勢氏はどんな家で、 どのような勢力であったのか。」 こういう目的で

 岡山県井原市に出向いて調査したのであるが、図書館や、まほろば館という歴史

 の展示施設など訪問したのであるが、伊勢氏の滅亡時期について詳しく紹介して

 ある古文書は存在していなかったのである。

 江戸時代の資料は多いのであるが、室町時代の天文頃の資料は岡山県井原市

に無いに等しいのである。

 理由は、この地域が合戦の舞台となり、 寺社や、民家が多数戦火にさらされ、

 焼き払われていったというのが理由のようである。




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          【 現在の 宝蔵院 岡山県井原市 平井 】


 記録によると、 現在の岡山県井原市東部付近の平井の大月家の近くにある

宝蔵院という寺院も、天文七年頃焼け落ちたという、言い伝えが残っているので

ある。

前話で紹介した、国重刀工の居住地から山陽道を西に10キロ程度進んだ

現在の広島県福山市神辺町では、神辺城主の備後国の守護 山名忠勝 が

杉原 理興【まさおき】と、大内氏によって、滅ぼされた当時、 北の新見では

新見氏が尼子氏と同盟を結んで、兵力を備中国の南部に向けて侵攻を開始し、

天文八年【1539年】には、備中国全体が尼子氏の勢力圏内に入っていった

とされている。



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  備中国というのは、室町時代の初頭、 細川氏が守護に任じられ、ずっと

足利幕府の元で、 備中国 鴨方城で、守護として君臨していたと言われていて

その滅亡の時期と、 東荏原庄の領主 伊勢氏の滅亡の時期はほぼ同時に近

い程度の時期と言う事がわかっていったのである。

 その年というのは、天文七年 【1538年】後半から、翌年の天文八年の初頭

にかけてである。

そして、この年、 尼子勢の連合軍は、伊勢氏を滅ぼし、 山陽道を西に進み、

備後国 神辺に進出し、 神辺城の 当時の城主 山名 理興 と講和を結び、

山名 理興が、 周防の大内氏を裏切って、尼子方に寝返ったという記録がある。

こういう風にしないと、 大内氏に義理立てしていたら、滅亡するので 仕方の

ない選択肢であったと推察される。



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             【天文時代の当時の備後国 及び、 備中国の情勢 】




 このような調査結果から、おおよそ、東荏原庄の領主 伊勢氏の当時の当主

伊勢 隆資 【たかすけ】は、 備中国 守護、鴨方城主 細川氏の幕下として

合戦に及び、 尼子、新見、三村、庄 などの連合勢に敗退し、 高越山城を

包囲攻撃され、天文七年に落城し、 城主 伊勢 高資は、 井原市図書館の

資料によると、 天文七年十月二日に死んだと言う。

 この資料が本当か、間違いかは置いておいて、 おおよそ、伊勢のお殿様が

 東荏原から消えていった時期は、天文七年頃と考えて良さそうであるが、

 多少時期が新たな資料が出て来れば、前後する可能性がある。

 亡くなった、伊勢 高資の子息2名は、山陽道を西に逃走し、後に毛利氏の
 
 家臣となり、慶長頃、 伊勢氏は断絶したと記録にある。

 この息子の伊勢 兵庫助盛勝 と、弟の 伊勢 豊後 盛秀 は、先祖代々

 の地を尼子氏に占領され、 浪人となっていった様である。

 御家再興をめざして、毛利の親族の吉川氏の家臣となったものの、 それを

 果たせず、断絶して消えていったようである。

 この天文七年前後は、 備後国や、備中国では、室町幕府の守護大名が

 攻め滅ぼされて消えていき、 尼子 経久の影響下におかれていった時代という

 事がわかっていったのである。

 翌年の 天文八年【1539年】には、美作国も、尼子氏が平定し、中国地方は

 尼子 経久の勢力圏になって行った時代であったようである。


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   この当時、 尼子 経久は、 備後国 木梨庄の杉原氏が大永七年頃

 裏切って、大内氏に寝返ったことをずいぶん不満に思っていたようで、神辺城

 の山名 理興と手を結ぶと、 備後国 木梨庄 鷲尾山城に兵を進め包囲して

 ついに、 鷲尾山城を落城させ、天文十二年【1543年】六月、木梨杉原氏は

 滅亡し、山陽道を西に逃亡し、毛利氏の家臣となるとある。

   実に興味深い説があって、 伊勢の殿様が 東荏原庄から放逐され、

  国重刀工が 尼子勢に捕らえられ、 連れて行かれたと言う説があって

  これらの事について調査した事を 次回紹介したいと考えている。


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     【 来週に続く。】


第308回 日本刀 備後国西条住国重の御刀を考察する。 納屋 助左衛門

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第308回 備後国西条住国重 天文七年の御刀を考察する。


                            2017年11月5日日曜日



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   この投稿文は、筆者が以前自ら歩いて調査した事を、論文にまとめていた

ものを少しずつ投稿と言う形で世間に紹介していくものである。

当時の資料や、写真を再度上から撮影していたりして、見苦しい箇所については

御寛恕をお願いしたい。




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   第280回から 岡山県井原市などで作刀していた 備中国国重刀工の調査の

 お話しを紹介していて、 興味のある人には、よかったら初めから閲覧をお勧め

 する。



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【 室町時代 天文頃の井原市の絵図 当時は小田川が二手に分かれていた。】




   今日のお話は 天文七年 【1538年】頃の岡山県井原市周辺の出来事と、

 刀工 国重 の強制連行説についてのお話しを紹介する。

    天文七年頃、 出雲国 尼子 経久の勢力が、備後国、備中国、美作国で

 拡大していき、 備中国 守護職、 鴨方城主 細川家が滅び、 東荏原庄の

 伊勢氏も、一緒に滅ぼされ、 高越山城は落城し、焼失、 城主 伊勢 隆資は、

 天文七年十月二日に落命し、 子息 盛勝、 盛秀の2人は、西に落ち延びて、

 後に 毛利氏の一族、吉川家に仕官したと言い伝えがある。

 そして、後に吉川 経家の鳥取城籠城戦で、命を落とし、伊勢氏は滅んだとされて

 いるのである。


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      【 岡山県井原市の 高越山城跡  城主 伊勢 隆資 戦死 】


この岡山県井原市の東部付近の寺院や、古文書を調べて歩いたが、当時の

資料がどう言うわけか極端に少なく、皆無に近い、井原市の歴史資料館

まほろば館の職員の人に聞いても、 この天文期の事を良く知らないようである。

 当時、高越山城の周辺はどうも 軍勢によって焼き払われたようで、宝蔵院

などの寺院も、焼失したと言い伝えが残っている。

ところで 今日お話しする 国重刀工強制連行説 というのは、今からそうーー

30年程前、内輪の広島県と岡山県の刀剣研究家の間で語られていた推測説

の一つである。

 当時のこの説について議論していた 財団法人 日本美術刀剣保存協会の

メンバーも 多くが他界され、筆者1人が 生き残りである。

 実は、 当時のメンバーも、筆者も見たこともない 言い伝えの作品について、

 いろんな可能性をあげて議論していたのは懐かしい。


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              【 岡山県 井原市 東荏原 ひがしえばら 付近 】



    備後国 西条住国重  天文七年八月日 という 作品があるとされていて

  当時、 この作品はみんな観刀したこともなかったのである。

  もし、 ご存じの人がおられたら投稿で教えていただけるとありがたいと思う。

  つい最近、岡山県の 財団法人 日本美術刀剣保存協会の 国重刀工を研究

 されている人に尋ねてみたが、 やはり 未見というお話しであった。

 本人も、「そう言う作品はぜひ、拝見したい。」と、語られていた。

 尼子勢が東荏原庄に攻め寄せ、 城主 伊勢 隆資を殺害し、 国重刀工達を

 拘束し、 備後国西条に強制連行したのではないかという説は、推測説で

 証拠も、何も無い、30年程前、 昭和の後半のお話しである。



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   どうして、そんな強制連行説が出て来ることになって行ったかと言うと、

   岡山県井原市東部付近から、どうして、現在の広島県庄原市西条という

   地に 移動しなければならなかったのか、 その理由が不明で、動機と

   道理があわないという訳である。



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     備後国 西条の地は、 尼子方の 備後国守護代の家柄の山内氏の勢力

    圏内で、 ここに どう言う経緯で、刀工 国重 兄弟の 次郎、三郎、四郎が

    行く必要があったのか、 こう言う事が当時、 疑問となったのである。

   
      

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    備後国西条住国重 天文八年八月日 という作品と 同じ時期、 尼子氏に

 東荏原庄 高越山城が攻められて 落城し、 刀工 国重らは、捕らえられ

 備後国 西条に 連れて行かれたのではないかという 推測説が沸いてきたの

 である。  

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    車社会の現在でも、ずいぶんと山の中で、 当時は歩行であったので、

   3日程度の距離と思われるが、 そんな遠くに行く動機がはっきりしなかった

   のである。



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   ここの 庄原市西城町という町から、北に更に進むと、小鳥原【ひととはら】

  という交差点があって、 ここを起点に 山の峠を越えていくと、かっかけ峠と

  いう大きな山の谷を下っていく難所があって、 その先は、 出雲国日南に至る

  のである。




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   実は、数話程度後に、佐藤拾助国重 という刀工のお話しを紹介する予定

 となっていて、 この佐藤拾助国重も、 しととはら 小鳥原 と呼ばれる場所

 で作刀している作品があるのである。



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  当時、 財団法人 日本美術刀剣保存協会 岡山支部 の 中津 勝巳氏

 が 佐藤拾助国重を研究されていて、 同じ、 備後国 西条打ちなので、

 年代の差異はあるものの、なにか共通した理由がありそうだと言うお話しとなり、

 それによると、 道後山の南の山麓の ひととばら と言う場所に 大鍛冶の村

 があったという言い伝えがあるそうである。




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               【 当時の広島県比婆郡西城町小鳥原付近 】


  室町時代に ひととばらのどこに 大鍛冶の 鉄を生産する施設があったのか

 と言う事については、中津 勝巳氏の調査では、わからなかったというか、ここでは

 ないかとか、あそこではないかとか、推測のお話しはあったそうであるが、世間が

 納得する証拠が無かったそうである。



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     赤い、針の先が、現在の広島県庄原市西条という町の北側、久保日本刀

  鍛錬場付近で、そこから 更に 北に、北に 駒を進めていくと、小鳥原と書いて

  ひととばら と読む地域に達する。

  時間的には、 おおよそ 車で約10分程度か、 そんなところである。


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        【 当時の広島県比婆郡西城町小鳥原 ひととばら 交差点】


  当時、「国重刀工が 自発的に 西条の地に行ったのではないか。」 という

 お話しも当初出たのであるが、 距離がありすぎるので考えにくいとの結論に

 達し、 やはり、東荏原庄に攻め込んできた 尼子氏の配下の軍勢であった

 山内氏の軍勢に身柄を拘束され、 山内氏の領地に 連れて行かれた可能性

 が非常に高いとこういうお話になったまま、 それ以上 調査が進んでいない

 のである。

  天文七年以後の 国重刀工の作品の年期などを調査してみると、天文十八年

までの9年間 資料となる作品がない状態で、 もしかすると、どこかに作品が

あるのではないか思われるが、 国重刀工の 空白期間となっているのである。

このあいだに 何が起こっていったのか、 これから若い人達の調査に期待した

いと考えている。


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   【来週に続く。】

第309回 日本刀 備州住国重作 天文十八年二月日の作品を考察する。 納屋助左衛門

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第309回 備州住国重作 天文十八年二月日の作品を考察する。


                              2017年11月11日土曜日



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   この 投稿文は筆者が以前自ら歩いて調査した事を論文にまとめていた

ものを少しずつ 投稿と言う形で世間に紹介していくものである。

当時の写真や資料を再度上から撮影していたりして、見苦しい箇所については

御寛恕をお願いしたい。



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   岡山県 井原市、梁市、新見市、真庭市北房町で作刀していたと言われる

 国重刀工の調査のお話しを 第280回から少しずつ紹介していて、興味のある

 人にはよかったら、初めから閲覧する事をお薦めする。


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           【 岡山県井原市東部付近  東荏原 高越山城跡 】




 前話の第308話のお話しで、 岡山県井原市東部付近を領地としていた 

備中国 高越山城の城主 伊勢 隆資【たかすけ】 が 天文七年【1538年】に

出雲国の尼子 経久他の連合軍に攻め滅ぼされ、 国重刀工らが捕らえられ、 

備後国 西条に 強制連行されていったのではないかとする、


              「 国重刀工の強制連行説。」


 という 推測説を 紹介させていただいた。

 初期の国重刀工を 研究している人達の間では 非常に信憑性のある説で

 その後、 天文七年【1538年】に 備後国西条住国重作 天文七年八月日

 という作品を最後に、約10年間 国重刀工の作品が消えるのである。

 これを 研究者の間では、


            「国重刀工 空白の天文の十年間。」と呼ぶ。 



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          【 広島県比婆郡西城町 小鳥原 交差点 現 庄原市 】




  どこかに作品があるのかも知れず、 もし手元に古い年期のある空白の

 天文の十年間の間の国重刀工の作品をお持ちの人がいらっしゃったら、投稿

 でご指導していただくと有り難い。

 

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  この空白の謎の十年間に 国重三兄弟が、備後国の西条に連れて行かれたか

自ら歩いていったのかは別にして、 何をしていたのかというのは 現在のところ

謎の部分となっていて、 若い人で 研究したい人はぜひ 課題として 研究して

いただけたらと考える。

 広島県 及び 岡山県の 財団法人 日本美術刀剣保存協会の支部の間

で 次の世代ではないかと 推測されている国重刀工の作品は、天文十八年

【1549年】に二柄、 次に、天文十九年【1550年】 の作品が確認されている

のである。


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              【 参考刀① 備州住国重作 天文十八年二月日 】



  この天文の空白の十年を過ぎ、 登場するのが 天文十八年二月日という

 年期のある 両刃造りの短刀で、 この作品が、備後国 西条で作られたのか、

 備中国 荏原庄で作られたのか、 昭和の後半頃は断定は出来なかったので

 あるが、出来のよい 両刃の作品である。

 その後、少し研究が平成に入って進んで、 上の写真の国重の作品は備中国

 荏原【えばら】打ちであることが 確定されていったのである。

 それは昭和64年頃、北海道で 同じ年期の荏原【えばら】という地名の入った

 作品が確認された事による。



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           【 参考刀② 備中国荏原住国重作  天文十八年二月日 】


 筆者の知り得た事を紹介すると、岡山県内に初めの写真の参考刀①が一柄と、

北海道に 一柄 作品が残されていて、【参考刀②】北海道の作品はやや刃が

低く、梵字の彫り物がある。



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          【 参考刀② 天文十八年二月日とある。】




 両方とも 同一の作者の国重と思われ、 寸法、姿形はほぼ同じで、なかごは、

 北海道の作品は、備中国荏原住国重作 天文十八年二月日とあって、目釘穴

 がひとつだけである。

 両作品を比較すると、 天文十八年【1549年】二月には、国重刀工の三兄弟

の内の誰かか、又はその子息が、 備中国荏原住国重作と銘を切って、作品を

作っていたことになり、非常に興味深い証拠資料となっているのである。
  


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                     【参考刀① 備州住国重作 】

 
  昭和の終わり頃、 そうーーたしか 昭和60年頃か、それ前後の頃、この

  天文十八年二月日 という参考刀①の作品が、岡山県内では一番古い国重

  刀工の作品とされていて、 大変貴重で、重要な資料で、尚且つ 出来がよい

  作品との評価で東京都に存在している 大永七年の年期の作品の次に位置

  する今まで見た中では古い作品である。

  天文七年【1538年】から 天文十八年【1549年】の間の 約10年間の作品

  を発見して調査すれば詳細はわからなくても、 おおよその国重刀工の 動きが

  わかると思うのであるが、なかなか 作品が出てこないのである。



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  平成のあれはたしか、十三年頃だったか、もう亡くなった大阪の刀剣商が

「 えーーもん でてきましたわ、どうでっか。」 と持参した、 天文十年の年期の

国重刀工の作品を手にしたが、 無銘の作品に、後から銘を入れた偽名【ぎめい】

であった。

 そういうわけで、 銘の中のサビ色と、 周囲のなかごのサビ色が微妙に違う

品については、要注意である。

以前紹介したように、大阪府の刀屋や、古美術商は ろくなのがいないので

そう言う人達の側に近づかない、 そして、行かないことである。

彼等は、 どうやって 人を騙して 金を作るかと言うことしか考えていないの

である。

それ故、 金を作ることならなんでもやる、 自分のことしか考えていない人達

ばかりである。

猿の匂いがすると言うか なんというか、 どうも 筆者は好きになれぬ。





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 それから、 この 天文の空白の10年間の後の作品というのは、以前の

 作品のように 辰房 【たつみのぼう】と銘に入れた作品がなくなっていったよう

 である。

 この点に着目すると、 辰房 という銘を切っていた、 2代目の国重刀工に

 該当する、 次郎国重 や、 三郎国重の作品ではないという説もある。

 彼等兄弟が作刀していたら、 間違いなく、 天文の初頭の従来通りの銘を

 入れた御刀を作っていたに違いないと言うわけである。

 それが、無い となると、 次郎 や、三郎の作品ではないのではないかとする

 説が信憑性が高いと思われる。

 昭和の63年頃だったか、 この国重刀工の三郎国重は、 新見庄に移住した

 という、「 三郎国重 新見庄 移住説。」 というのが発表された。

 次回は、 この説を わかりやすく紹介したいと思う。



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  【 来週に続く。】
 


第310回 新しい日本刀DVDの紹介 拵、刀装具の美 納屋助左衛門

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第310回 新DVD  拵、刀装具の美 高山一之の世界のご紹介


                         2017年11月12日 日曜日



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   数日前 新しく発売された 「 拵、刀装具の美 高山一之の世界。」 と言う

DVDの紹介である。


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   筆者が 高山一之さんと言う名前を知ったのは、そうーー あれは、大相撲の

横綱 隆の里の土俵入りの太刀拵が出来たより、少し以前のお話しで、 今から

35年か、40年前か、 ずいぶん前に、東京の銀座のすずらん通りの刀剣柴田

の 故 柴田 光男会長のお話で、 鞘師の 高山 一 さんの息子さんで、一之

さんと言う人がいてーーーー。 法政大学 法学部を卒業され、 跡を継がれて

随分研究熱心な人でーー云々。」と、 お話しを聞いたのが始まりである。



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  どう言う内容かと言うと、 鞘の素材選びから、 工作に用いる道具の紹介、

 作業の工程の紹介、 完成した 拵【こしらえ  外装の事】の紹介まで、一連を

 DVDで紹介してある。


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 以前 紹介したように、筆者は 自分で拵をデザインして 形にするのが好きで

 大変興味が尽きない 内容となっていて、 愛刀家の諸氏にはお勧めのDVD

 である。


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   完成した、 信家の鍔のついた 天正拵や、 研ぎ出し鮫鞘の拵や、

 いろんな作品も紹介してあって、 見て 目の保養になる内容となっていて、



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   これを 見ていたら、白鞘のままの御刀に 拵を 作りたくなってくる

 そんな DVDである。

 

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          少し 高価であるが、 その内容は充実した内容となっている。



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                  定価 8,640円 オリジナル版


         興味のある人には、ぜひ 見ていただきたい品である。


     【 次回に続く。】

第311回 日本刀 備中国新見住三良左衛門尉国重の作品を考察する。納屋 助左衛門

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第311回 備中国新見住三良左衛門尉国重の御刀を考察する。


                         2017年11月18日土曜日




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 この投稿文は、筆者が以前調査したことを論文にまとめていたものを 少しずつ

投稿と言う形で世間に紹介していくものである。

当時の写真や資料を再度上から撮影していて、見苦しい箇所については、御寛恕

をお願いしたい。




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   第280回から、岡山県 井原市、梁市、新見市、真庭市で作刀していた

 備中国 国重刀工の調査のお話しを少しずつ紹介していて、 興味のある人

 には、よかったら初めから閲覧をお薦めする。




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    今週のお話しは、 岡山県新見市【にいみ】市で室町時代に作刀していた

 備中国新見住三良左衛門尉国重 という御刀についての考察のお話しである。

 第309回のお話しで、天文十八年及び十九年の、備中国荏原住国重作の両刃

 の作品について紹介したが、 時期的には、その後に位置する作品となる。



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             【 参考刀  備州住国重作  天文十八年二月日 】





  紹介した、 天文十八年【1549年】 そして、 天文十九年【1550年】の

作品の後に、 どのような国重刀工の作品が残されていたかというと、知り得た

事を紹介すると。

 翌年の 天文二十年【 1551年】の頃、

 ① 備中国荏原住国重作  天文二十年二月吉日 

 ② 備中国荏原住三良左衛門尉国重作 天文廿年二月吉日 


 と言う作品が確認されているのである。

 この①と②の作品を比較すると、別人の銘ぶりで、興味深い。

 ①が、左太郎の子息、 次郎の作品か、 そして ②が 三郎の

 作品かは、 証拠が無いので 推測の域を出ないのである。


 その3年後の、 天文二十二年【1553年】の作品で、

③ 備中荏原住おしのべ作 天文廿二年八月吉日

 と言う作品が残っていて、 この③作品については後日、現地踏査のお話しを

 紹介する予定である。

 そのさらに翌年の 天文二十三年 【1554年】の作品で、


④ 備中国新見住三良左衛門尉国重 天文二十三年二月吉日

 と言う作品があることになっているのである。

 あることになっていると言うのは、江戸時代からの言い伝えで、筆者は未見で

 ある。

 つい最近、 岡山県の国重刀工の研究者に、聞いて見たところ、こちらもまだ

 見たことが無いそうで、出て来たら体調がよければ一緒に拝見したいと思って

  いる。


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 【 参考押型  備中国新見住三良左衛門尉国重  天文二十三年二月吉日 】




   あることになっていると言うのは、 江戸時代の古文書に手書きの押し型

 が残っていて、 当時は こう言う作品があったらしい。

 現在、現物がどこにあるのか知りたいが、 大火や、戦災や、昭和の刀狩り

 で滅失 したり、 そう言う可能性もあり、 それ故、 あったことになっているとの

 表現をさせていただいた。


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  この紹介した ④の作品と、 ②の作品は、同人で、 ①の作品とは別人と

 思われる。

 ②の作品によると、天文二十年【 1551年】の頃、 この三良左衛門尉国重は、

 備中国荏原【えばら】に住んでいたと思われ、3年後には備中国新見に移住した

 事になる。


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     【 黄色 備後国西条  黒 三村氏の進出、 赤 新見氏  青 尼子氏 】





 当時の政治状況をわかりやすく紹介すると、 新見氏という領主が治めていた

 備中国 新見庄 【にいみのしょう】 という場所に、南から 三村氏の勢力が

 侵略を開始し、 武力衝突が発生したのが、 言い伝えによると、 永正13年頃、

 【1516年】と言われていて、当時の新見氏の領主は、 新見 国経【くにつね】

 とされている。


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            【 黒のアローが 備中国 三村氏の 進出ルート】




 翌年の 永正14年【1517年】 つまり、国重初代 左太郎が、まだ伊予の国

 河野氏の家臣であった当時、 新見氏は、 尼子氏の傘下に加わり、尼子氏

 を後楯に、 三村氏と衝突を繰り返すようになって行ったとされている。  

 その後、 三村氏も、尼子 経久の傘下となり、備中国と備後国と美作国が

 出雲国 尼子氏の傘下となり、 一大勢力となって行った当時、 新見 国経が

 亡くなり、弟の 新見 貞経 が新見氏の当主になったと言われている。



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                  【   現在の岡山県新見市 】



   この天文二十二年から、二十三年 【 1554年】頃の国重刀工の移動を


   「 三良左衛門尉国重 新見移住説 。」  と、呼ぶ。

   作品を見ると、 備中国荏原住国重作 という銘を切る刀工は、荏原に残り、

   三良左衛門尉国重 と、銘を切る刀工は、 荏原を離れ、 新見に移住した

   とするほうがつじつまが合っていて、 当時、荏原でも 本家筋が作品を造り、

   新見に移住した三良左衛門尉国重は、分家筋ではなかったのかと思われる。


   昭和の終わり頃、 財団法人 日本美術刀剣保存協会の岡山支部の面々の

  間で、 三良 と書いて、 さぶろう と読むのではないかと言う、


  「三良左衛門尉国重 と、三郎左衛門尉国重 同人説。」というのが発表された

   のである。

   つまり、 故 小林 種次 さんや、 故 佐藤 紋造 さんや、 故 中津 勝巳

   さん達が、 思いついたというか、 考え至ったというか、 同人説が出て来て、

   故 中津 勝巳 さんが、しきりに研究していたそうであるが、結論が出なかった

   そうである。


   二十年ほど後の作品で、興味深い御刀が残っていて、その押型が

   下の写真である。


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             【 参考押型  備中国荏原住人三郎左衛門国重作】


   故 中津 勝巳 さん曰く、 三良左衛門尉国重の 良 という文字は、

   三郎の 郎の 略字で、 良 という文字を入れているのではないか、

   と言われていたのである。


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  【 参考押型  備中国荏原住人三郎左衛門国重作 天正三年八月吉日】



  ところで、荏原住人三郎左衛門国重作の作品は、天正三年年期で、1575年

  となっていて、 差し引きすると、21年も間があいていて、 そして、左衛門の後に

  尉 と言う文字が無く、同人かどうか慎重に検討する必要がありそうである。

  故 中津 勝巳 氏の生前のお話しでは、 天眼鏡で拡大して ためつすがめつ

  見て見たが、 何とも言えなかったとあり、銘の比較では わからなかった

  そうである。

  この 三良左衛門尉国重 が、 三郎で、 備州荏原住国重 と銘を切っていた

  のが、次郎かとも 推測されるが、 あくまでも推測の域を出ない。

  これらの結論には、天文二十三年 から、天正三年までの作品を探し出して

  比較検討していくしか方法が無いと思われ、 これがなかなか、作品が出て

  こないのである。

  この記事を読まれて、情報をお持ちの人は 投稿でご指導いただけると

  大変ありがたいと思う。



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                    今週のお話しはここまでである。


    【 明日に続く。】


第312回 日本刀 国重刀工の源流を考察する。 納屋 助左衛門

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第312回 日本刀 国重刀工の源流を考察する。 

                         2017年11月26日 日曜日





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  この投稿文は、筆者が以前自ら歩いて調査した事を論文にまとめていたものを

少しずつ投稿と言う形で紹介して行くもので、 当時の写真や資料を再度上から

撮影していたりして、見苦しい箇所については、御寛恕をお願いしたい。


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   第280回から、岡山県 井原市、梁市、真庭市、新見氏、 広島県尾道市

などで作刀していた、国重刀工の調査のお話しを紹介していて、 興味のある人

には、それ以前の 源流の 青江刀工の調査のお話しなど、 よかったら 読んで

いただく事をお薦めする。



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            【 岡山県北房町の 備中国水田国重の 墓石群 】



   ここ数回に渡って、古国重 と呼ばれる刀工の作品や当時の周辺の歴史を

 紹介してきたのであるが、 今日は 新しい新説を みなさんにお話ししたい。



               「 古国重刀工の四兄弟説。」


 古国重刀工の四兄弟説とは何かと言うと、 今まで日本刀の書籍などで

紹介されていた 初期の国重刀工が、実は四兄弟ではなかったのではないか

という新しい説で、 提案者は 筆者で、 研究中、 そう感じるようになって行った

だけで、 証拠が無い 推測説である。

ただ、 その可能性が非常に高いと考えている。




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   現在伝来しているすべての国重刀工の古文書は、江戸時代の それも

 後期に作られた品がほとんどで、 言い伝えをまとめた品で、系図なども

 色々あり、 全部が内容が相違していたり、 いろんな整合性がとれてない

 箇所が多く、 おおよそ それらをまとめていくと、 次の様になっていくのである。



    伊予国の 河野 通信公の 四男の 通久の子 通次が、承久の乱の

 河野家の崩壊で、伊予国を落ち延び、 備中国の青江港の刀工 為次に匿われ

 2代目の為次に入門し、 3代目 青江 為次を名乗ったとある。


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③  この3代 青江 為次 こと 河野 通次 で、河野八郎五郎為次 という。

④  4代 青江 為次 こと、 河野 八郎次郎 為次

⑤  5代 青江 為次 こと、河野 尉四郎 為次 

⑥  6代 青江 為次 こと、 河野 又太郎 為次

⑦  7代 青江 為次 こと  河野 又四郎 為次

  この7代目 又四郎の時に、 青江一体が 水害で荒廃し、飢饉が発生し、

  伊予国 守護職 河野家に仕官し、 備中国から 伊予の国に移住した

  と言い伝えがある。

  伊予の国 大月郷に住み、 河野から、 大月に姓を改める。

  筆者の調査で、 大月郷なる村は存在せず、 伊予国 大月山山麓の

  村に住み、 大月山より、 大月という姓を名乗ったと思われ、主家の

  河野家に遠慮して、 河野を名乗らず、大月としたようである。


 ⑧ 8代 大月 与八郎 為次 

 ⑨ 9代 大月 与太郎 為次

 ⑩ 10代 大月 与次郎 為次

 ⑪ 11代 大月 与七郎 為次

 ⑫ 12代 大月 左太郎 為次

 この12代 為次 左太郎の時、 河野家の内紛で、河野家を追われ、

 浪人となり、 伊予国を脱出して、 故郷の備中国 青江に戻り、大永の

 大洪水で青江の地が荒廃し、西に避難し、 備中国 荏原庄に定住する。

 ところで、この系図が、調査して行く間に、必ずしも 親と子ではないことに

 気がついていったのである。
 
 ⑨の与太郎は、おそらく長男であり、 ⑩の与次郎は次男であり、

 ⑪の与七郎は、おそらく七男と思われ、 兄弟で 随時 惣領となっていった

 と思われるのである。

 どうしてかというと、 歴史の出来事と、年代と、 この家系図を比較して

 検討してみたところ、 親と子と考えた場合、 整合が取れない事が多々あり、

 つじつまを合わせようとすると、 兄弟として考え、跡を継いでいったとすると

 つじつまが合うのである。

  左太郎の 下に 3人の 次郎、三郎、藤四郎という兄弟が次の世代と

なっていて、日本刀の銘鑑なども、系図を載せているが、 太郎とは 当時

長男が用いていた名前であり、 次郎とは2男 で、三郎とは、3男を意味する。



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          【 国重兄弟が移住してきた 備中国荏原庄  岡山県井原市 】


  数話前で、 太郎と言う長男は誰であったのかと、 お話ししたが、 実は 長男

 は、左太郎で、 次男、の次郎、 3男の三郎 4男の藤四郎 と言う四兄弟で

 あったのではないかと、 思う様になっていったのである。


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          【 室町時代の大永の頃 国重刀工が住んだ 鍛冶屋畑 】




    大永の初頭、 備中国 荏原庄の現在の小田川の河川敷の鍛冶屋畑

  に、避難して 住み着いていった 左太郎一族は、 大永六年に当主 左太郎

  が死去し、 次の 惣領は 次男の 次郎が 13代目を次いで 辰房国重を

  名乗っていったと思われる。


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             【 参考刀 備州辰房国重作  大永七年八月日】


  今までの研究で 一番古い本歌の作品は、 大永六年の年期の備中国荏原

 住人国重作という作品が確認されていて、 これ前後に 国重 と言う刀工の

 銘が出来ていき、 大永七年、八年 と、 備後国 尾道港で作刀していたと

 言い伝えがあり、 その後、 享禄元年には、 備中国荏原庄に戻って 作刀を

 開始し、 天文七年に 備後国西条住国重作 という作品を最後に、作品が

 約十年間途切れ、確認されず、 その後、 天文十八年に至り、 作品が

 存在している。


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    最新のお話として、 俗名の無い、 備州住国重作、 又は、 備中国荏原

 住国重作 と言う銘を切る刀工が、 惣領の 13代目の次郎の作品と思われ、

 
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            【 参考刀 備中国荏原住国重作 天文十八年二月日 】


   そして、 三良左衛門尉 国重 と銘を切る刀工が、 三郎と思われ、 

  天文二十三年に、 備中国 新見庄に移住し、 作品が残されていたと言われ

  押型が残されている。

  そう言うわけで、 次郎が13代目の当主で 備中国 荏原庄に戻り、荏原国重

  の当主となり、 三郎は 分家し、 備中国 新見庄の 新見国経の領地で、

  新見国重家の元祖となって行ったと思われる。


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 ところで、 この13代以後の、 14代、15代はどうなっ行ったのか、非常に

ややこしく、当時の政治状況、経済状況、 権力者の権力の範囲などを調査

しながら、御刀の作品とあわせて、少しずつ調査を進めていったのである。


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  筆者は先週お話しした、 新見三良左衛門尉が、20年後に荏原に戻り

  三郎左衛門と銘を入れて作品を造っていたとする説には、疑問を持っていて

  否定はせず、 年代ずつに分けて、 調査した事を 少しずつ紹介して行きたいと

  考えている。



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                    今週のお話しはここまでである。



          【 来週に続く。】


第313回 日本刀 備中国荏原住辰房国重作を考察する。 納屋 助左衛門

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第313回 備中国荏原住辰房国重作を考察する。

                           2017年12月2日土曜日




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  この投稿文は、筆者が以前自ら歩いて調査した事を論文にまとめていたものを

少しずつ、投稿と言う形で紹介するものである。

当時の写真や資料を再度上から撮影していたりして、見苦しい箇所については

御寛恕をお願いしたい。



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 第280回から、岡山県井原市や、梁市、新見市、真庭市、北房町などで

作刀していた備中国 国重刀工の調査のお話しを少しずつ紹介していて、興味の

ある人には良かったら、 それ以前の 青江刀工の調査の記事から閲覧することを

お薦めする。



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               【 参考刀 備中国荏原住国重作 室町時代 】




  今週のお話しは、先週まで天文の年代までの国重刀工のお話しを紹介したの

であるが、 昭和50年代後半に提議されて、そのまま 消えていったというか、

放置されている「 国重兄弟の天文死去説。」 という推測説を紹介したい。

 当時、 財団法人 日本美術刀剣保存協会の岡山支部の 故 中津 勝巳

氏らが、 「実は 天文七年以後、 国重刀工の当時の人達は死に絶え、 天文

十八年当時の作品は、次の世代の国重刀工の作品ではないか、 もしそれが

本当なら、 備中国新見住三良左衛門尉国重 という刀工は、次の世代の別人

と言うことになり、 次郎や三郎は死んでしまった、 それ故、 天文七年から

十七年まで 作刀がなされていないという説明も成り立ち、 そして、辰房と銘に

文字を入れなくなっていった道理が成り立つというお話しであった。 




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               【 当時の東荏原庄 こと 岡山県井原市 】


  当時、故 中津 勝巳氏、故 小林 種次氏、 故 佐藤 紋造氏らは、 辰房

  と銘に入れていた 荏原の鍛冶屋畑の国重刀工が どうして 辰房 という漢字

  を用いなくなっていったのかという事について、随分研究されていたが、結局、

  わからずそのままとなっていて、平成に入って筆者がその後を研究した事を

  紹介したい。



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                  【 備州辰房国重作   室町時代 】

 筆者がこの研究を始めた当時、まだ昭和の後半で、 当時茨城県に住んでいて

 もう随分と調査したが、 世間が納得する証拠が結論として現状無いのである。

 それ故、 空想話を行うわけにも行かず、故 中津 勝巳氏らも、詳細は不明として

周囲に語っていたわけである。

 「 君、なぜ 国重刀工は、辰房 という銘を入れなくなったのか。」 と、問うと、

 すぐ回答を行える刀剣商は、東京都内では数人である。

 実は、故 中津 勝巳氏らのお話しを箇条書きにして、 国重刀工の 次郎

三郎らが、天文七年か八年に死んでいたとしたら、 少しつじつまの合わない事

が多々あり、 可能性をあげて、 箇条書きにして、 1つずつ、可能性を消して

いく作業と並行して、 国重刀工の作品を年代別に整理していく、 そして、当時

の政治経済軍事の世相の歴史を付き合わせて検討していった結果、30年の

調査の末に思い至った結論とは何かと言うと、 国重刀工は、備後国尾道港の


   「 辰房屋敷の注文の刀だけに 辰房と銘を切っていた。」 という結論に

なって行ったのである。

つまり、元請けと 下請けの関係で、 下請けしたときは、 辰房と 銘を添えて

いたと思われるのである。




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   【備後国の尾道港  こと 広島県尾道市土堂付近  備後刀剣資料館蔵】



  辰房屋敷のことは 以前紹介したので前文を参照していただくとして、お寺の

僧侶が運営する 日本刀の工房の建物の名前で、 大永七年当時の古文書から

辰房屋敷 という文字が確認され、 お寺の建物の名称で 尚且つ、ブランド名で

あったと推測され、 室町時代の当時、西の糸崎港周辺には、 三原正家一派が

日本刀を造り、 その西の 中之町の和久井川周辺には、貝 と銘を入れる

貝三原 と呼ばれる 工房が存在し、 その更に西のえげ谷という場所にも

三原刀工の銘が確認されていて、 三原から尾道、鞆、草土 と、瀬戸内の

沿岸一体で、日本刀が造られていたようである。

  

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【 6代目三原正家の井戸跡から 明治初期の糸崎港を撮影 備後刀剣資料館蔵】



  今風に言えば、 そうーー備前長船博物館から注文があったら、「備前長船

 博物館国重。」 と銘に入れていたような感じであったと思われる。

 国重刀工が 辰房の銘を入れなくなっていったのは、 備後国の辰房屋敷からの

 注文が途絶えていったという事が第1の原因で、 第2の原因は、辰房屋敷に

 注文を出していた備後国の木梨庄の領主 杉原氏が尼子氏に滅ぼされ、注文を

 出す人が消えてしまい、 尾道の周辺の長い間保たれていた権力構造が、尼子

 氏の巨大な暴力によって、崩壊し、 三原刀工や、尾道の刀工は路頭に迷うとに

 なっていったようである。

 

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                【 明治初頭の 現在の尾道市役所付近 】



  どういうことかと言うと、 以前紹介したが、当時の鉄は戦略物資で特に、

 三原刀工は、杉原氏から鉄を供給され、 日本刀を作って、 年貢の代わりに

 御刀を納めていた関係で、 材料の鉄の供給元と、生産した製品の販売ルート

 を一気に失い、 一人歩きできなくなって行ったようである。

 それと平行して、 国重刀工の住んでいた 備中国荏原にも 尼子氏が

 攻め寄せ、 領主 伊勢 隆資 は殺害され、 高越山城は落城し、城下の

 町や寺は焼き払われ、 国重刀工らは 推測ながら、備後国 西条に連行

 されたか、 自ら出向いたかは調査中であるが、 天文七年の備後国西条住

 国重作という作品を最後に作品が十年間消えていくのである。



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 故 中津 勝巳氏らが、国重兄弟は死んだのではないかと思ったのも作品の

刃紋が、天文前期には、辰房の他のお寺の刀工同様、細直刃であったものが

天文十八年には、 焼き刃が高くなっていて、それ故、別人ではないかと思った

ようである。


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           【 参考刀 備州住国重作  天文十八年 室町時代】



   問題は、この不明の空白の十年間に答えがありそうであるが、現在のところ

 世間を納得させる充分な証拠が見つからないのが現状である。

 筆者の研究では、 天文の前の享禄の後半には、 国重刀工は 辰房 の文字を

 入れた作品が途絶えていて、 天文七年まで続いていないことに筆者は注目して

 いて、これは大変興味深い事実である。

 古国重と呼ばれる兄弟が亡くなったという説なら、 天文七年まで 辰房と銘を

 入れる風習が続いていたはずで、それが、享禄の後半には入れなくなっていった

と言うのは、 やはり 辰房屋敷から注文があった時のみ、 辰房と銘を入れていた

するのが収まりが良さそうである。

 この時期の資料は不足していて、 お手元に作品があるとか、情報をお持ちの

愛刀家の人には、些細な事でも 投稿でご指導いただけたらと有り難い。

現在、江戸時代の国重刀工の研究は、北房町の杉氏や、南条氏らの努力で

知る人が増えているが、それ以前の国重刀工の調査は 霧に包まれているの

である。



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                   今週のお話しは ここまでである。


 【 来週に続く。】

第314回 日本刀 備中国荏原住おしの人作を考察する。納屋 助左衛門

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第314回 備中国荏原住おしの人作 天文廿二年八月吉日の作品を考察する。


                                2017年12月9日土曜日




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  この投稿文は筆者が以前自ら歩いて調査した事を論文にまとめていた

 ものを少しずつ投稿と言う形で世間に紹介して行くものである。

 当時の写真や資料を再度上から撮影していたりして、見苦しい箇所については

 御寛恕をお願いしたい。


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      【 河野理兵衛尉為家の屋敷跡  岡山県真庭市北房町あざえ】





  第280回から岡山県井原市、梁市、真庭市 新見市などで作刀していた

 国重刀工の調査のお話しを紹介していて、 興味のある人には、その前の

 国重刀工の源流の青江刀工のお話しから 閲覧をお薦めする。


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          【 中国地方の大大名になった 尼子 経久 公 】



   室町時代の天文の頃、現在の島根県の出雲の国の大名の尼子 経久が勢力

 を拡大し、備後国、備中国、美作国を占領し、 大大名となり、 中国地方に勢力

 を保っていた 周防の国の大内氏と覇権争いをするようになって行った、
 
 その後、 天文10年 1541年11月に その尼子 経久が亡くなると、

 尼子氏の勢力は徐々に衰退して行ったと言われている。

 その8年後に、 備中国荏原に 備後国西条から立ち戻った 国重刀工は

 作刀をまた10年ぶりに始めたようで、 空白の10年を経て、故郷に戻れた

 ようである。 

  おそらく、 尼子氏が衰退し、 権力構造が変化し、 故郷になんとか戻れた

 と推測される。


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  ところで、 今日のお話は、国重刀工が荏原に戻って4年後の年期の作品に

ついてお話しを行いたい。

 筆者は、その作品については、手に取って見たことが無く、 人ずてのお話し

であって、 ぜひ 機会があれば 鑑刀してみたいとは思っているがなかなかその

機会が無いのである。


  銘     備中荏原住おしの人作

         天文廿二年八月吉日  という作品があると言われていて、

1553年頃の 国重刀工の作品らしい。

つまり、わかりやすく言うと、日本の種子島に 火縄銃が伝来して

10年後程度の作品となる。

おしの人 と言う 刀工は誰なのか、 この点について、昭和50年代の

後半に、 財団法人 日本美術刀剣保存協会 岡山支部の 小林 種次氏

や、 佐藤 紋造氏や、 中津 勝巳 氏らがしきりに研究されたようである。

 当初は、 おしの と言う 女子の刀工がいたのではないかとする推測説

も提案され、 同時 盛り上がったらしい。




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        【 荏原【えばら】の庄があった、 現在の岡山県井原市平井 】


備中荏原住 とあるので、 現在の岡山県井原市平井付近と言う事は間

違いなく、 その後、新見庄に移動したとされている 三良左衛門尉国重が

新見に行って作品を残す、1年前の年期の作品で、 おしの人 が誰で

あったのか、多いに当時疑問に思われていたそうである。


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  あれはたしか昭和の終わり頃のこと、 岡山県井原市の西江原町在住の

 研究家 落合 保之 さんが、 推測と前置きした上で、 おしの人 と言うのは、

 ひらがなの へ が人に見えて、 実際は、おしのへ ではないかとの推測説を

 発表されて、 当時 国重刀工の研究家の間では 注目に値する発表であった

 のである。

 落合 保之 さんの説では、 上の画像の 赤い矢印の 鍛冶屋畑に国重

 刀工が暮らしていて、 「その 少し下流の 北側に、おしのべ こと 現在の

 押延という小川が流れる谷があって、 ここが、おしのへ つまり、おしのへで

 作刀したのでーーーーー云々。」との研究結果を紹介されたわけである。

 この推測説を、 我々研究者の間では、


    「 荏原おしの人 押延【おしのへ】作刀説。」 と呼ぶ。



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         【 国重刀工が住んでいたとされている 鍛冶屋畑の河川敷 】


  あれは、いつ頃であったか、ずいぶん前に、 国重刀工が作刀していたと

されている 鍛冶屋畑に出向いて、 東方向に 筆者は駒を進めたのであった。

 
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         【 平井方向から 東の押延方向を撮影する。】


  写真を見ると、稲刈りのすんだ後なので、11月初頭ではなかったかと思う、

 ちょうど 鍛冶屋畑の河川敷から、約1キロ程度 北東に進んだ場所に 現在の

 押延という谷の集落は現在も存在する。


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                【  岡山県井原市と矢掛町の境が 押延】



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    【 岡山県井原市押延地区の入り口付近 小さな川が流れている。】



    ちょうど この谷の上の左右が 押延という集落で、 人に何か刀工

  に関係する墓石や史跡が残っていないか訪ねて歩いたのであるが、

  この土地の男性に聞いて見ると、 目を大きく広げて、「 ほうーーー。」

  と、逆に質問を受け、「 ご苦労さんですなーー。」 と、 声をかけられる

  始末にて、 何ら情報を得られなかったのである。


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    谷に入ると、 西から東に狭い道路が走り、 県道の南から入った道と

    丁字路になり、 さらに 北に登って行く道が 小川と平行して伸びていて、

    歩いて当時調査に、そうーー2ヶ月の期間の内に、数日 現地にかよった

    ような記録がある。

    結論を先に紹介すると 徒労に終わったわけである。



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         【  押延の谷を北から南に撮影する。 12月初旬撮影 】


    この上の写真が、 押延の谷の上の北側から撮影した写真で、 この

  撮影した 上にお堂があって、 その先には民家が当時なく、 墓石も調査

  してみたが、 新しい石ばかりであった。

  この地が国重刀工の作刀地という、言い伝えや、証拠資料、史跡は

  調査した時は、数日歩いたが、皆無であった。

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  【 民家の北の山側は墓地となっていて、 その先は別の部落に至る。】



   現地を歩いて見て思うに、 仮に、 岡山県井原市西江原町在住の

落合 保之氏の推測説が正しいとした場合、 地理的な条件から、国重刀工が

暮らしていたとされる 鍛冶屋畑の河川敷から歩いて15分程度の近くである事、

そして、 その地形から、小川が流れ、 水を用いるのに便利な地形であった事、


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              【岡山県井原市押延地区の  山の上の祠 】
 

  思うに、 室町時代 大雨の増水した場合に、ここの谷は、避難場所の

  1つではなかったのか、と現地を歩いて 感じるようになって行ったのである。


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  そして、 その作刀の期間は、限定期間で、 それ故、 作品が多く残されて

 いない理由ではないかと思われる。

 おそらく、 天文廿二年八月吉日の作品 のみ作品が残されていて、 これ前後

 に大雨による 小田川の増水で、 鍛冶屋畑から 少し北西のこの場所に移動した

 時期があったのかもしれぬ。

 しかしながら、 どうして 国重 と銘を入れなかったのか、 もしかすると

 別の刀工であったのか、 そのあたりの事が 現在もよくわかっていない

 謎の部分である。



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  それか、 もしかすると、押延の谷の下流と、 小田川が合流する地点に

  その昔、船着き場のような場所があったのかもしれぬが、証拠が無いお話しで

  推測の域を出ないが、 おしの人 ではなく、 おしのへ ではないかとする

  考えについては、 御刀のなかごの銘を研究して見ないと、何とも言えない

  のが現状である。

  人と見えるのが 実は、 ひらがなの へ であるとするには、実物の銘を

  見て見ないとわからない事である。



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               【  押延の谷から、小田川を望む。】


  以上のような訳で、 昭和の終わりから、この 備中荏原住おしの人作

  天文廿二年八月吉日の作品の研究は、止まったままとなっていて、 なにか

  些細な情報でもお持ちの全国の愛刀家で、ご存じの人がいらっしゃったら、

  この記事の末尾の投稿機能でご指導いただくと 大変有り難いと思う。

  また、若い人で、 研究して見たい人には、 筆者の記事を出発点として

  谷川に添って 研究していただき、 紹介していただけたらと考える。



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         【 来週に続く。】


第315回 日本刀 備中国荏原住国重刀工と、天文年間の政情を考察する。納屋助左衛門

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第315回 備中国荏原住国重刀工と、天文年間の政情を考察する。

                            2017年12月16日土曜日




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  この投稿文は、筆者が以前、自ら歩いて調査した事を論文にまとめていたものを

少しずつ投稿と言う形で世間に公開していくものである。

当時の写真や資料を再度上から撮影していたりして、見苦しい箇所は御寛恕を

お願いしたい。



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  第280回から 岡山県井原市、梁市、真庭市、北房町、新見市周辺で

作刀していた 備中国の国重刀工の調査のお話しを紹介していて、興味のある

人には、 その源流となって行った、青江刀工のお話し、第188回から、よかったら

閲覧する事をお薦めする。



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                   【 参考刀 備州住国重作  】



  ここ数回、天文二十三年までの 古国重と呼ばれ分類されている知り得た作品

を紹介しながら、その謎の空白部分や、残された作品を少しずつ紹介してきたの

であるが、 作品と、 その時代の政情を考察していくことは大変大切で、当時

 国重刀工が住んでいたとされる、 備後国、 備中国が 天文時代にどうなって

いたのかという事を 大まかに、わかりやすく 紹介したいと思う。


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          【 伊勢氏の高越山城跡  岡山県井原市東荏原 】


  天文七年【1538年】頃、 国重刀工が生活していた 備中国荏原住国重作

 と銘を切って作刀していた当時の東荏原荘【ひがしえばらのしょう】の領主の

 伊勢 隆資【たかすけ】 が出雲国の尼子氏の軍勢に滅ぼされ、同年、どう言う

 わけか、 国重刀工は、 備後国 西条住国重作 という作品があって、尼子氏に

 連行されたのか、 どうかはわからないが、 そんなお話しを数話前に紹介させ

 ていただいた。


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          【 出雲国  備後国 備中国、美作国の大名の尼子 晴久 】


 その2年後、天文9年【1540年】 勢いを得た、尼子 晴久の軍勢は、安芸国の

毛利氏を3万の大軍で攻め、 大内氏や毛利氏の連合軍に大敗し、 翌年の

天文10年【1541年】11月13日 晴久の祖父 尼子 経久が82才でこの世を

去ると、尼子氏の勢力は衰えを見せていくのである。



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    【 天文10年に死去した 尼子 経久  智将として恐れられていた。】


翌年、 智将 尼子 経久が死んだとあって、 追い打ちをかけた 山口県の大内氏

らの軍勢は、 出雲国 尼子氏に攻め込んで、 月山富田城の戦いで反撃を受けて

大敗し、 膠着状態となっていったようである。

この時点の天文11年【1542年】頃の中国地方の政情は、大きく分けて、周防の国

の現在の山口県に本拠を置く、 大内氏と、 山陰の 現在の島根県の尼子氏の

勢力がお互い戦争をして戦火を交えるという政情であったようである。



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          【 備後国 鷲尾山城跡  木梨荘 杉原光恒の居城 】


 翌年の天文12年【1543年】 つまり、火縄銃が日本の種子島に伝来していた

頃、 尼子氏が大内氏に寝返った、 備後国 木梨荘【きなしのしょう】の杉原光恒

を攻め、 居城の鷲尾山城が落城し、 杉原 光恒は自害し、 その子息 杉原

隆盛が捕らえられ、 出雲国に連行されたとある。

この事件が、 備後国の三原鍛冶の衰退の始まりとされているのである。

この出来事から数年後、尼子氏はどんどん衰えていき、 備中国は、三村 家親

の勢力が拡大し、大内氏と手を結ぶようになっていったようである。

そんな、備中国荏原に 天文十八年【1549年】に国重刀工が立ち戻ったのか、

作品が残されているのである。


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           【 参考刀 備中国荏原住国重作 天文十八年二月日 】


 その2年後、 天文二十年 周防の国、 現在の山口市で大寧寺の変という

 大内氏の当主 大内 義隆が、謀叛で殺害されると言う事件が発生し、大内氏が

 突然 内部分裂して、 重臣の 陶 隆房が、大内家を乗っ取るという形となり、

 大内氏の勢力、 周防、長門、石見、筑前、安芸、備後の勢力がバラパラになって

 行くそういう大きな政変が発生して、乱世の時代になっていったとされている。



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              【 大寧寺の変で自害させられた 大内 義隆 】


 そんな時代の、 その大寧寺の変から2年後の天文二十二年【1553年】頃、

 前回お話しで紹介した、 おしの人作の御刀のお話しなどで紹介したのであるが

 国重刀工は、 備中国荏原住国重作 と銘を切る 荏原の本家と、三良左衛門尉

 と俗名を切る 備中国新見住三良左衛門尉国重作という刀工の2派に別れて

 いったそう言うお話しを紹介させていただいた。



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            【 参考 押型 備中国荏原住三良左衛門尉国重作】


  ちょうど、 この荏原【えばら】から、現在の岡山県新見市に 三良左衛門尉

 という国重刀工が移住して、 天文二十三年の八月吉日 という作品を残していた

 翌年、 安芸の国の厳島で、 陶 晴賢 と、毛利 元就との合戦があり、


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    大内家を滅ぼした 陶 晴賢 が戦死し、 毛利 元就が勝利し、毛利氏

 が、大内家の勢力を吸収して、大きな勢力になって行った、そういう年が、改元

 されて、弘治元年【1555年】という年であったようである。

 天文の時代というのは、国重刀工の一族には、受難の時代であったようで、

 備後国、 備中国では、戦乱が絶えず、大変な時代であったようである。

 そして、天文が24年間続き、弘治【こうじ】の年号に入ると、それまでの 大内氏

 と尼子氏の二大勢力が変化して行き、 衰退を始めていった尼子氏と、分裂して

 いった大内氏の勢力、 この分裂した勢力を 安芸国の毛利氏が吸収していった

 り、攻め滅ぼしていったり、 そういう時代の政情になっていったようである。



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         【 備中国東荏原庄  現在の岡山県井原市東荏原 】   
 
 

こうして、国重刀工が生活していた 備中国東荏原庄【ひがしえばらのしょう】は、

徐々に、この北東に拠点を置く、三村 家親の勢力によって支配されるように

なっていったようである。

次回は、 三村氏の支配下になっていった当時の 国重刀工のお話しを紹介したい

と考えている。


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  【 来週に続く。】



第316回 日本刀 国重刀工と備中国三村氏を考察する。納屋助左衛門

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第316回 国重刀工と備中国三村氏を考察する。


                          2017年12月23日土曜日




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   この投稿文は、筆者が以前自ら歩いて調査した事を論文にまとめていた

 ものを少しずつ投稿と言う形で世間に紹介していくものである。

 当時の写真や資料を再度上から撮影していたりして、見苦しい箇所につい

 ては、御寛恕をお願いしたい。



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    【 備中国森上佐兵衛尉国重の墓石  岡山県真庭市北房町森上】 


 第280回から、備中国 国重刀工の調査のお話しを少しずつ紹介していて、

 源流の青江刀工の調査のお話し 第188回からも、興味がある人は閲覧

 することをお薦めする。



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    【 三村氏の最後の拠点となった、 備中松山城城下 岡山県高梁市 】


  国重刀工が住んでいた、岡山県井原市平井付近の殿様、 伊勢 隆資が

 尼子氏に滅ぼされ、 十年程度して、天文十七年頃、 尼子氏の勢力が

 減退し、 山陰地方にどんどん撤退していくと、 備中国では、表向き、尼子氏

 に隷属していた 武装勢力が活発に相争う戦国時代となり、大きくなっていったの
 
 は、三村氏という、小名であったのである。

 日本刀を研究する上で 大切な事は、 その周辺の政治状況、経済物流の

 状況、 天災、などなどの出来事を相対的に研究することが大切である。

 本日のお話しは、 備中国の三村氏と国重刀工というお話しであるが、

 詳しく紹介すると1冊の書籍が出来てしまうので、なるべくわかりやすく 

 要約して紹介する。


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         【 ① 荏原国重刀工の暮らしていた東荏原庄の位置 】


    備中国 三村氏の先祖は、常陸の国の筑波郡三村郷の出身で、末端の

 御家人であったと言われている。

 鎌倉時代の初めの 承久の乱にて、手柄があり、北条氏から、信濃国 現在の

 長野県の中の、 筑摩郡洗馬郷【 せばごう 】の地頭職を賜り、同地に移住し、

 鎌倉時代の後期に、 備中国 星田郡の地頭に転封され、移住してきたと言われ

 ているのである。


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      【 現在の岡山県美星町あたりが、星田郡であったと言われている。】


  以上のような事情で、 鎌倉時代から、国重刀工の移住地の①の場所から

 北の山中の盆地に 三村氏は地頭として存在し、永正頃の当主は、三村宗親

 だったと言われていて、 古文書によると、 永正十四年【1517年頃】には

 北の新見氏を攻めて 大きな合戦となったと記録がある。


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   尼子氏が、備中国に侵入してくる原因を作っていったのは、新見氏で、南の

 三村氏の圧迫で、 単体で対抗できず、北の出雲国の尼子氏に援助を求め、

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 尼子氏が大軍で押しよせると、 新見氏とともに、三村氏も人質を出してその傘下

となり、 尼子氏が衰えると、 また、三村氏単体で、周囲を侵略していったという

のが大まかな時代の流れである。

三村 宗親の子息、 三村 家親は、大内氏が衰えると、毛利氏と同盟を結んで

周囲を攻め、領土を拡張していったと言われ、 備中国の大半をその領土とする

ようになっていったと伝えられている。

ちょうど、国重刀工が荏原に戻ってきた 天文18年【1549年】頃、 三村氏は周囲

をどんどん侵略していた真っ最中であったようである。


 
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              【 毛利元就の軍勢が 備中国に侵入する。】


  この地方の古文書や言い伝えを総合すると、国重刀工が 荏原庄に戻って

 3年後、 西から毛利元就と、長男 隆元の軍勢が東上し、 これに三村 家親

 の軍勢が加わり、 東の備中国 草壁庄の猿掛山城主の穂井田実近と合戦と

 なり、大きな武力衝突があったと記録があるのである。



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    その合戦を 天文21年【1552年】の矢掛【 やかげ 】の合戦と呼ぶ。

   この合戦、 穂井田側が勝利し、 その後、複数回の小競り合いの後、

   翌年の 天文22年【 1553年 】 毛利元就が井原に着陣、 吉川 元春

   や、 毛利の軍勢が大挙して押しよせ、 和睦となり、 三村家親の長男の

   元資を 穂井田 實近が養子に向かえ、 当主とするという、事実上の

   三村氏と、穂井田氏の吸収合併と言う形で、 和議が成立したとある。


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    その後、 新見氏を滅ぼし、 尼子氏を出雲に放逐して、 備中国は、

   三村氏の一国支配となり、 西の毛利氏と軍事同盟を結んで、さらに膨張

   していったと伝えられている。

   簡単に 三村氏について紹介したのであるが、天文23年【1553年】頃

   から国重刀工は、三村氏に隷属する刀工になっていったようである。

   この当時、まだ新見氏は健在で、 国重刀工が暮らす 東荏原から、

   

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       【 ①から②の新見庄に三良左衛門尉国重は移動して行った。】


  ②の 新見庄に 三良左衛門尉国重が移住していったことについては、数話

 前に紹介した通りである。

 筆者が作品を比較していくと、おおよそ20年程、備中国では三村氏の時代と

 なっていて、 次の世代の 佐兵衛尉などの世代との端境期が、次の年号の

 弘治頃のことではなかったかと推測しているのである。 


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          【 三村氏の本拠  備中国 鶴首城 かくしゅじょう 跡 】


   ここ数回で紹介した、天文頃の国重刀工の作品は、三村氏か、毛利氏の

 注文で作られたと思われ、 後日紹介するが、毛利家の室町時代後期の

 古文書に国重刀工を召し抱えたという記録が残っていて、 おそらく、

 三村氏の合力で、 備中国の矢掛の合戦に毛利元就らが出陣し、毛利家の

 家中が、国重刀工を知るようになっていったと思われる。

 その出来事は、天文22年【1553年】頃の出来事ではなかったのかと

 現在推測している。

 備後国の国境を境に、西は毛利氏、東は三村氏と協定を結び、三村氏は

 北と東に軍事侵攻していったと言われている。

 これらの武力衝突が、 武具の特需を発生させ、 備中国や、備前国では、

 日本刀が次々作られ、 そして合戦で使用され、滅失していったようである。



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    来週は、 天文から弘治、そして永禄の初頭の国重刀工について

    お話ししたいと考えている。


    【 来週に続く。】


第317回 日本刀 矢掛の合戦前夜と国重刀工を考察する。納屋 助左衛門

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第317回 備中国 矢掛【やかげ】の合戦前夜と国重刀工を考察する。

                            2017年12月30日土曜日




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  この投稿文は、筆者が自ら歩いて調査した事を論文にまとめていたものを

少しずつ、世間に紹介するもので、当時の資料や、写真を再度上から撮影して

いたりして、 見苦しい箇所については御寛恕をお願いしたい。


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  【 備中国住佐兵衛尉国重の屋敷跡  岡山県真庭市北房町森上 】



  第280回から、岡山県井原市、梁市、新見市、真庭市、北房町で作刀

していた、備中国 国重刀工の調査のお話しを少しずつ紹介していて、興味のある

人には、国重刀工の源流の備中青江刀工の調査のお話しの第188回からの

お話しも閲覧する事をお薦めする。


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    【天文21年【1550年】ころ合戦の舞台となった 矢掛町【やかげちょう】】





 江戸時代から、平成の末期の現在まで、 いろんな人が国重刀工を研究

したのであるが、国重刀工と、備中国の矢掛の合戦をあわせて考察した人は

筆者の知る限り誰もいない。


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              【国重刀工が住んでいた 岡山県井原市東荏原 】 


 しかしながら、国重刀工の 古国重と呼ばれる、 左太郎や、次郎、三郎、四郎

の次の永禄期、天正期に作刀することになる 佐兵衛尉国重や、佐藤拾助国重

などが召し抱えられることになっていく 毛利氏との関係の始まりとして考察すると

この備中国 矢掛の合戦は大変重要な出来事であることに当時、筆者は気がついた

のである。


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              【  天文時代初頭の 備中国の勢力図 】



  ところが、調べて見ると、矢掛の合戦の事について語った古文書は

非常に少なく、言い伝えのみで、 はっきり言うと よくわからなかったのである。

さらに、やっかいなことに、庄氏の分裂、 穂井田氏の位置図けと、ややこしく

難解で、 仕方なしに当時、天文の初頭まで戻って、その23年間を研究してみた

ところ、 おおよそながら、その姿が浮かんだことを、簡単に要約して本日紹介

する。

詳細に紹介すると、本が出来る程度 すごい文章となる。


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    【 天文時代の後期、 備中国を支配する事になっていった 三村氏】



この出来事が、 国重刀工と毛利家、三村家との関係の始まりであり、天文18年

から再開されていった 国重刀工の作刀を調査する上で大変重要である。

つまり、江戸時代の初頭まで続く、 毛利氏との雇用関係の始まりを調査する

ことは、 国重刀工が、松山、長田、新見、水田に分散して行った歴史の原点

であると考えるようになっていったのである。

つまり、あざいや、水田に国重刀工が移住していった理由を考える時、毛利氏

との関係は切っても切れない関係で、これらの事を考察することは、今まで知ら

れていなかった事実が出て来るに違いないと思う様になっていったのである。


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         【 美星町の三村氏と新見氏が武力衝突を繰り返して行った。 】


   備中国の星田郡の領主 三村家親は、天文時代の初頭、領地拡大の為

 北上を開始し、 新見庄の 新見氏に攻め入り、 新見氏は、背後の巨大勢力

 出雲国の尼子 経久に援助を求め、 尼子氏が備中国に進出するきっかけと

 なって行ったのである。



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  そんな当時、 尼子 経久が知恵を出したのが、三村 家親の背後の勢力

を調略し、味方にして、 三村 家親を牽制すると、 新見氏への攻撃が抑制

されるのではないかと考えるようになっていったようである。



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                【 山陰地方の大名であった 尼子 経久 】


   そこで、尼子 経久が、手を結んだのが、 当時の備中国 猿掛山城の

  城主であった 庄 高資 であったと言われている。


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       【 庄 高資は、鎌倉時代から続く、備中国の守護代の家柄であった。】



    三村氏の背後の 備中国 猿掛山城城主 庄 高資 が尼子方について

  三村氏の背後を牽制することで、 当時、多いに脅威を加えたようである。

  三村氏の本拠地、星田郷と、穂井田郷との距離は、わずか12キロ程度、

  徒歩で半日程度の距離で、 防衛兵力を南に展開する事になっていった

  ようである。



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 さらに、ややこしい事に、 川を挟んだ 対岸の石川氏や、南の穂井田氏と

庄氏が同盟を結んで、尼子氏の傘下に入り、 連合軍となって行ったようである。


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          【天文2年【1533年】 庄 高資が松山城を攻める。】


 天文2年【 1533年 】の頃、 尼子経久の誘いに同調しなかった、備中国松山

の上野 頼氏を、庄 高資が強襲し、 備中松山城が落城し、 備中松山城に

庄 高資が入城し、 猿掛山城には、穂井田 実近が城代として入ったとある。



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  【 天文2年 1533年 備中松山城は、尼子氏の傘下の庄氏の城となる。】





 こんな当時、 天文6年ころから、 出雲国の尼子氏が大軍を動員して 備中国

に進出する土台が出来ていき、 三村 家親は、方針を転換して、尼子氏と同盟

を結んで、自らの保身をはかったようである。

つまり、尼子 経久と戦うと、三村氏は滅んでしまうと悟ったようである。

 その結果、 三村氏、庄氏などが、尼子氏の傘下となり、 備中国の中部、北部

は、尼子氏の領土となって行ったとある。



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        【 天文7年【1538年】 尼子氏が備中国の南部に侵攻する。 】


  天文7年 【1538年】頃、 備中国の守護職であった 細川 通政を尼子氏

と三村氏、庄氏らの連合軍が攻め、 細川氏や、配下の伊勢氏が滅んだとある。

以前紹介したが、この天文7年の頃、 備後国西条住国重という銘の品の後、

10年程、作品が見れていないのである。




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    鴨方城の 細川 通政は、 海上へ逃走し、伊予の国に落ち延びたとある。


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         【天文7年 尼子氏の傘下に 山名氏と杉原氏が加わる。】


   尼子 経久は、 備中国の南部から、 備後国の東部に進撃し、保身を

 保つ為、 当時の 備後国 神辺城主 山名 理興 【まさおき】が尼子方となり、

 備後国の木梨庄の杉原 光恒も同調し、 備後国の東部は尼子氏の領土と

 なって行ったようである。



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     このような出来事で、備後国の三原刀工の支配者、杉原氏と、その一族

  と言われる 山名 理興らの一派も尼子氏の傘下に入ると、西から、大内氏

  が攻め寄せて来て、 杉原氏が保身の為に尼子氏を裏切って、大内氏の傘下

  となり、神辺の合戦が始まっていったようである。

  現在の 芦田川の東に尼子方、 西に 大内氏が布陣して、長期間の

  にらみ合いが続いて行ったとある。


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   このような出来事があって、 大内氏の軍勢に備後国の東部は制圧され、

  神辺城の城主 杉原 理興こと、山名 理興は、出雲国尼子氏の元に逃走

  したとある。




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  こうして、備後国は、大内氏の傘下となり、備中国は尼子氏の傘下となって

  天文時代後期になると、 尼子氏と大内氏の勢力が突如衰えていき、バランス

  が崩れていき、 備中国では 三村 家親が侵略を又開始し、 それに対抗する

  豪族が、庄 高資を中心に連合軍を形成し、 対峙するようになっていったようで

  ある。

  三村 家親は、当時、大内氏に替わって、備後国に進出してきた 毛利氏と

  同盟を結んで、西からの脅威をなくして、その兵力を北部や、東部に展開し

  合戦を繰り広げていったようである。

  つまり、 三村 元親は、尼子氏を裏切り、毛利氏と同盟を結び、 そして、

  庄 高資らの、尼子方のままの軍勢と対立していったと考える。


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          【 天文18年 【 1549年】 毛利氏 神辺城を制圧 】


 毛利 元就は、尼子氏に滅ぼされた、木梨杉原氏の残党や、尼子氏に逃走して

 いた、 山名 理興と同盟を結んで、 備後国を統一して、神辺城を山名 理興

 に再度 与えて、 その傘下とし、 三村 家親と同盟を結んで、備中国を

 うかがいだしたとある。

 これが、天文18年頃の出来事である。


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              【 参考刀 備州住国重作 天文十八年二月日 】


  そうすると、以前紹介した、 上記の参考刀が作られた当時は、東荏原の庄は

三村氏の勢力圏内で、 となりの西の神辺庄では、 また、山名 理興が、神辺城

の城主となり、 西から毛利氏の勢力が迫っていたと思われる。





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      【 備中国の尼子氏傘下の庄氏らが、三村氏に総攻撃をかける。】




  天文20年【1549年】ころ、毛利氏と同盟を結んだ三村氏に対して、尼子方

であった、 新見 貞経 や庄 高資や、穂井田 実近が連合して攻勢を掛け

三村 家親が手を焼いて、毛利氏に援軍を要請し、 ここに毛利氏の備中国への

進出の原因となっていったようである。


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                    【 参考刀 備中国荏原住国重作 】

 そうすると、天文20年 21年、22年、23年は、備中国内で、毛利氏と同盟を

結んだ、三村 家親の一派と、 尼子氏の傘下の、新見 貞経 と、庄 高資や、

穂井田 実近らの軍勢との武力衝突が盛んに行われていたというのが、当時の

東荏原庄周辺の出来事で、 おそらく出来た刀剣は、三村 家親に納品されて

いたのではないかと推測される。



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   【 参考押型 備中国荏原住三良左衛門尉国重作 天文二十年八月吉日】 



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  そうすると、上の参考刀なども、 三村氏からの注文ではないかと考えてみると

 非常に興味深い、 そして謎なのが、 3年後、 どうして、三良左衛門尉国重は、

 当時の三村氏の敵方の新見氏の新見庄に移住していったのかと言う事は、謎

 である。


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              【 参考押型 備中国新見住三良左衛門尉国重 】



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               【 参考押型 天文二十三年二月吉日 】


   これらの作品を見ると、国重刀工は、次郎の一家は、荏原に残り、 三郎の

 一家は、 尼子方の勢力の新見氏の元に走って行った、 こう言う事がわかって

 きたがその理由は不明で、研究中である。



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   備中国 矢掛の合戦とは、 矢掛だけでなく、 いろんな場所で長期間、

 合戦が行われていった、その一部に過ぎないことがわかってきたのである。

 そして 国重刀工が住んでいた 岡山県井原市の東荏原は、毛利氏の本陣

 がおかれ、 そして 毛利氏と国重刀工の関係が天文21年【1550年】ころから

 始まって行ったようである。


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    当時の古文書や いろんな調査した事を総合すると、毛利勢の先陣は、

  備後国 神辺城主の城代、 杉原 盛重の軍勢が務め、道案内となり、その後に

  山名 理興の軍勢、 吉川 元春の軍勢と続き、 毛利 隆元、 毛利 元就の

  軍勢と続いて行ったようで、当時、現地を歩いて 実際の合戦がどうやって行

  われていったのかを調査する事にしたのである。


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     【 矢掛町の西 2キロ程度の場所から矢掛町方向を撮影 】




  この地方、西から東に谷のような棒状の平地が続いて、小田川という川が流れ、

  南と北は 険しい山々となっていて、 当時の山陽道は川に沿って東に

  伸びいたようである。

  地理的条件を見る限り、 西から寄せて来た軍勢が布陣する場所としては、

  川に沿って、 北の平地、 ここに、先陣の杉原 盛重勢、 山名 理興勢

  の約千騎程度、 その背後に、 吉川元春の軍勢3千程度、 その後に、

  毛利 隆元の安芸国の軍勢、約5千騎程度、 その後に、毛利、小早川などの

  本隊 6千騎程度が布陣したと思われる。

  合計、およそ1万5千騎、荷駄やその護衛の兵力を加えると、2万騎に近かった

  ようであるが、 寄せ集めの軍勢であったようである。

   つまり、毛利氏の軍勢は おそらく3千騎程度で、あとは途中で加わった

  他人の軍勢であったと思われる。 


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               【 備中国 猿掛山城  城代 穂井田 実近 】


  対する 庄氏や穂井田氏、石川氏などの軍勢は、その最前線を、本拠地の

 備中国 猿掛山城に置いて、 その兵力は 3千騎程度であったようである。

  つまり、6倍以上敵が西から攻め寄せて来たわけで、 どうやって6倍の敵と

 向かい合っていったのか、 言い伝えによると、尼子氏側の 庄氏、穂井田氏の

 連合軍は打って出て、現在の矢掛町で6倍の兵力と激突し、互角の合戦を繰り

 広げ、 毛利勢を押し返したとある。

 つまり 城に籠もって 籠城しても包囲されて、兵糧攻めにされると 必ず

 負けることがわかっていて、 それ故、 留守居の守備隊を猿掛山城に残して

 矢掛町に撃って出たというのが、 矢掛の合戦であったと思われる。




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    当然、 西から毛利氏の連合軍、北からは三村氏の軍勢が前と右から

 攻めてきて、 中央に川が流れ、そして 左手の南側は急峻な山岳地帯と

 なっていて、 わずかな兵力を展開するにしても、 猿掛山城には守備兵力を

 残しておくであろうし、 実際、この矢掛に布陣できた兵力は、おそらく2千騎程度

であったに違いないと考えたのである。



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   そうすると、 正面と、右から 10倍以上の敵と合戦することになって行った

  それが 矢掛の合戦であったようである。

  当時、 思いを巡らせ、 自分が 毛利元就であったらどう攻めるか、逆に

  穂井田 実近であったら、 どう守るか、 現地を歩いて考える事にしたので

  あった。

  この投稿文を読んで、興味がわいた人には、よかったら1度 矢掛町に足を

 運んで、筆者の投稿文をベースにさらに研究を進めてもらいたいと考えている。

 毎月のように、高価な御刀を買うわけにも行かず、 こうして、御刀と歴史を

 あわせて考えて、研究して見ると なかなか楽しめると思うのである。


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         今年は この記事が最後の投稿となる、 愛刀家の諸氏には、

         よい新年をお迎えいただく事を祈念している。

         次回は、わずかな軍勢で、 2万人近い 毛利 元就の軍勢を

         相手に善戦したという 穂井田 実近の合戦の方法とはどのような

         戦術であったのか、これを研究した事を紹介したいと思う。


   【 来週に続く。】


賀正新年のご挨拶 納屋 助左衛門 

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                           新年のご挨拶




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         謹んで新年のお慶びを申し上げます。

         本年もよろしくお願い申し上げます。

                              


第318回 日本刀 備中国 矢掛の合戦と国重刀工を考察する。その2 納屋助左衛門

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第318回 備中国 矢掛の合戦と国重刀工を考察する。その2

                               2018年1月6日土曜日





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  この投稿文は、筆者が以前自ら歩いて調査していた事を論文にまとめていた

ものを 少しずつ投稿と言う形で世間に紹介していくものである。

当時の写真や資料を再度上から撮影していたりして、見苦しい箇所については

御寛恕をお願いしたい。



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      【 備中国水田の伊尾【いのお】石城寺【しゃくじょうじ】からの全景】    

      【 備中水田住国重と銘を切る刀工は右手の山すそに居住していた。】






  第283回から、備中国 国重刀工の調査のお話しを紹介していて、

  興味のある人には、 国重刀工の源流の 青江刀工の調査のお話しを

  第188回から紹介していて、よかったら 閲覧をお薦めする。



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                   【 岡山県小田郡矢掛町 】



   先週の第317回で、岡山県井原市の東荏原の国重刀工と、毛利氏の

 雇用関係はいつ頃始まって行ったのか、 こういう事を調査していて、矢掛の

 合戦が非常に重要な出来事であった、 その時代背景を要約して、簡単に

 紹介させていただいたのである。



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                    【 ①の印が 国重刀工の居住地 東荏原【えばら】庄 】



 今週のお話しは、 この矢掛の合戦に西から攻め寄せていった、 毛利軍

 の軍勢の様子を研究したお話しを紹介したい。


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         【 室町時代の天文20年頃の備中国の勢力図 】



  今から480年程前、 備中国は出雲国の尼子氏の領地の一角となっていて、

 ここに、 三村 家親という小名が、 裏切って、西の広島県の毛利氏と同盟を

 結んで謀反を起こし、 尼子氏は、備中国の配下の諸将に、三村氏を攻めるよう

 に命令し、 連合軍勢力に、北の新見方向、東の松山方向、 南の矢掛方向から

 攻められ、 三村 元親が同盟を結んだ毛利元就に援軍を要請したことから

 矢掛の合戦が発生していった 原因のようである。



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                          【 毛利 元就 】


  当時、東の三村 元親から援軍を求められるも、 毛利元就は、北は尼子氏、

 西は大内氏を滅ぼした 陶 氏がいて、全兵力どころか、 一部の兵力しか

 備中国には、援軍としてまわせられない状況下であったと思われる。

 そこで、 援軍として 出発させたのは、 妻の実家の里、 吉川家の養子となって

 いた 吉川 元春 当時 20才に、後見人をつけて、備後国の神辺城に向かわせ

 たと言われている。

 途中、 備後国の各所で、 他家の援軍を吸収しながら東に進み、備後国神辺城

 に至り、 ここで備中国の平定の拠点としたようである。



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                       【 吉川 元春 】


    毛利元就は、 妻の実家を乗っ取るために、妻の甥の 吉川 興経とその子

 を矢掛の合戦が発生する2年前の天文19年に殺害し、また、それらを支持する

 家臣達を殺害し、 自分の次男を吉川と名乗らせ、 その兵力は、おそらくは、

 その所領の範囲から、全体で1500名程度、 留守居の部隊を領地に残しての

 出発であろうから、 おそらく備中国に向かったのは、1000名程度ではなかった

 のかと推測する。

 そして、山陽道の要所要所で、 周辺の軍勢を途中の道中の寄せ集めていき、

 その実態は、数は多いが、寄せ集めの統制力が低い軍勢であったと思われる。

 つまり、関ヶ原の戦いの 西軍のように、 所詮、他人の兵力であったのである。



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  備後国の南部の三原で、 弟の3男の小早川 隆景の軍勢、 尾道周辺の

  杉原氏の軍勢、神辺の山名氏の軍勢が加わって、 その勢力は4千人程度の

  当初勢力であったと推測される。

   杉原氏の子孫が、吉川氏や、毛利氏に仕えていくことになっていった原点

   も、やはり この天文21年の矢掛の合戦が原点ではないかと思われる。

   ところで、慶長5年の 関ヶ原の合戦と違い、 矢掛の合戦は、1年以上の

   長期に渡って行われたと言われていて、 結局、 勝敗が決まらず、和議と

   なって行ったのであるが、 関ヶ原の合戦では、両者が武力でぶつかり合い

   片方が1日で消滅していったので勝敗が短期で決まったわけであるが、この

   矢掛の合戦は そうではなかったようである。


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    若い若年の 吉川 元春を大将に、軍勢は東に当時の山陽道の現在の

   井原市、 そして 矢掛町に兵力を進めていったようである。

   言い伝えによると、 天文21年 【1550年】 ころの出来事であったらしい。

    現在のところ、正確な日時については、資料が無く不明である。


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 【 当時、三村 家親は、 備中松山城の 庄 高資 に攻められていた。】



   ところで、 吉川 元春の作戦の目的は何かと言うと、 三村 元親の

   援軍であるので、 三村 元親の軍勢と合流して、 尼子方の軍勢を

   つまり、庄氏の軍勢を追い払う事が当時の目的であったと思われる。



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   ここ矢掛町は、当時の山陽道の分岐点の1つで、 ここを北に進路を

 取ると、三村 家親の本拠地、 備中国 星田郷に至る場所で、ここを

 逆に、尼子方に押さえられると、 北に行った後、相手に押さえられると、背後を

 突かれ、補給ルートを脅かされ、補給物資が滞り、部隊が孤立する事に

 つながるため、 押さえておく必要がある戦略的拠点であったと思われる。



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    ここを押さえて、さらに東に進むと、 尼子方の庄氏の猿掛山城があり、

  これを落とすと、 川を挟んで、同じく尼子方の石川氏の高山城があり、

  ここを撃破して押さえると、 当時の備中国の穀倉地帯を押さえることになり

  重要な戦略拠点であったのである。



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    筆者が吉川 元春で軍勢の本陣を構えるとすると、 上の画像の矢印の部分

 周辺、ちょうど、伊勢谷の公民館から、 川面小学校の間の区間、このあたりに

 布陣すると、 矢掛の合戦を行うには、本陣として、前に出るのも、それから防衛

 をするにも、好都合な場所と考える。


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     吉川 元春の軍勢の本隊と、その随伴部隊を上の画像の場所に

     布陣させ、 先陣の 杉原氏の軍勢は、その東側の川沿いに、

     小さな丘があって、 ここに布陣すると、好都合である。


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    ちょうど上の画像の中央の川沿いの林の部分、星田川の西岸の林、

    前は川、 大阪城で言えば、真田丸のような位置関係の場所である。

    敵が攻め寄せて来るであろう東方向は、 川が流れていて、天然の

    堀として利用でき、 浅瀬の河川敷の要所を防衛するだけで、相手は

    西に攻め寄せることが難しく、 矢掛を見渡せる 立地条件である。



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   言い伝えによると、 毛利氏は2万人程度の軍勢で攻めよせて、矢掛の

  合戦を戦ったと言う事になっているが、 実はそうではなく、 初戦の頃は、

  備後国 神辺城を後陣に、 補給ルートを確保しながら、 当時の山陽道を

  東に進み、 その兵力は、3千人から4千人程度の寄せ集めの軍勢で

  あったと思われる。

  どういうことかというと、 仮に、3千人が矢掛に布陣すると、大量の飲料水

  食糧、 武具が必要となって来て、 水は当時現地で調達するしか無く、

  輸送部隊が、備後国神辺城を拠点に、矢掛に対して 補給を行っていた

  と思われ、 その輸送部隊の隊列を、 防衛する護衛部隊も必要であったと

  考えられ、最低でも補給に携わる人数は、500名程度の部隊であったのでは

  と推測する。

   そして、当時の矢掛町は、現在と違い、川土手や、 堤防などがなく、河川敷

  の川が合流し、大雨が降ったら、水害が発生する三角州のような場所では

  なかったのかと現地を歩いて見て感じたのである。


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                  【 調査当時の 星田川の川土手 】


   星田川、 そして、美山川が小田川に合流する場所で、便利がよい

  反面、 大雨が降ると洪水が発生する場所、 そこが室町時代の矢掛町で
  
  あったに違いないと思う様になっていったのである。

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    これらの川の流れは、平成の現在とは違っていたかも知れぬが、 おおよそ

   左右の土手が無かったとして考えて、当時の風景を想像すると、やはり、

   大雨で増水すると、水没する河川敷のような低地の場所ではなかったろうか

   と、当時、 現地を歩いて思い至ったのである。



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  もし、 三村 家親が、 本拠地から、矢掛に出兵しても、 備中松山より

 圧迫してくる、 庄 高資の軍勢と対峙しているので、 その兵力は少数に

 とどまり、 12キロ程度 南下して 矢掛に着陣した、三村氏の軍勢は、

 もしかすると、 0 名であったかもしれぬし、 多くても、300名程度では

 なかったのではないかと推測する。

  三村氏の配下の軍勢が、現在の美星町の北川から 南に下り、矢掛の

  どこに着陣するか、 現地を歩いて見ると、 筆者がその指揮官であれば


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    【  上画面 中央の 小さな丘の手前が、陣を構えるのに適している。 】
  


    北に 小さな丘があって、 ここに布陣すれば、 西より、吉川勢、備後勢

   北から、 三村勢が 矢掛に攻め寄せるのに 好都合な場所である。



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             【 三村勢が 布陣したのではと推測される場所 】


  しかしながら、記録を調査した限りでは、矢掛の合戦に 三村勢が出陣

 していたという記録は皆無で、 もしかしたら、この場所にも、吉川 元春の

 軍勢の一部が 陣を構えていたのかもしれない。

 とにかく、 言い伝えのみにて、 物証などもなく、日時も定かでなく、長期間

 の長対陣となっていったのは 間違いのない出来事のようである。




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   それでは、反対側の 東方向へ目をもっていくと、どうであったのか、

   相手の当時、尼子方の勢力であった 穂井田氏、庄氏、石川氏などの

   軍勢が布陣したのはどこであったのか、 調査した事は、又来週紹介

   したいと考えている。


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      【来週に続く。】


第319回 日本刀 備中国 國重刀工と矢掛の合戦を考察する。3 納屋 助左衛門

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第319回 備中国 国重刀工と備中国 矢掛の合戦を考察する。その3

                            2018年1月13日土曜日




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  この投稿文は、筆者が以前自ら調査した事を論文にまとめていたものを

少しずつ投稿と言う形で紹介していくものである。

 当時の写真や、資料を再度上から撮影していたりして、 見苦しい箇所について

は御寛恕をお願いしたい。



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  第188回から、備中国 国重刀工の源流の 青江刀工のお話しから調査した

 事を紹介していて、 興味のある人には、閲覧をお勧めする。



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  前回のお話は、国重刀工と主従関係が始まって行ったとされる 安芸国毛利家

との関係の始まりはいつであったのかを探る重要な出来事、 備中国 矢掛の合戦

についての 毛利側の布陣はどこであったのであろうかと、現地を歩いたお話しを

第318回で紹介させていただいた。



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       【 天文21年 備中国 矢掛【やかげ】の合戦の毛利勢の布陣図 】




  第318回で紹介した場所を わかりやすく紹介すると、上の様な位置となる。

 これは、 筆者が指揮官であったら どういうふうに部隊を配置するか、今の

 地形を基本に考えたもので、推測であるが、おおよそ 間違いのない場所と

 考える。

  今日のお話は、 その相手側の 穂井田 實政 側の連合軍の布陣を考察

 したお話しを紹介したい。



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                     【 ① 備中国 猿掛山城 】


 当時の この地方の戦略拠点であった、 草壁庄 【くさかべのしょう】の猿掛山

 【さるかけやまじょう】は、鎌倉時代から続く 庄 氏の 本拠地であり、当主 庄

 高資 が備中国 松山城に移動し、 それ故、 城代として 穂井田 實政が、

 治めていたと言われている。


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        【 ①の印 の 備中国 猿掛山城 さるかけじょう 跡  三谷地区】


   上の写真の山に当時 砦があり、 この草壁庄を支配していたとされている。



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            【 ②  三谷の砦跡 現在の真備公 公園あたり。】


  上の写真の②のあたり、 矢印の部分が すっと 山が迫り、狭くなり、

 山陽道の関所が 平安時代からあったそうで、 当時 ここが 三谷の砦

 または、屋形と呼ばれ、 戦略拠点であったようである。



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         【 小田川の 北岸に当時、関所 兼 屋形があったらしい。 】



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           【 猿掛城から 当時の山陽道を西に撮影する。】
     

  上の写真を見ていただくと、 西から、つまり 矢掛方向から 山陽道を東に

  つまり手前に歩いて来ると、 道が狭まり、 三谷のこの部分を押さえてしま

  うと、東に進めなくなり、 軍事上 平安時代以前の奈良時代から、大切な

  場所であったらしい。

  それ故、 関所が置かれ、 軍事上の重要拠点であるとともに、ここに、

  駅があって、早馬などの中継地であったと言われている。

  


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         【 備中国 草壁庄  西より 猿掛山城方向を撮影する。】


  書物によっては、 この 草壁庄が、室町時代に 穂井田庄になった、つまり

 名前が変わったというような事を書いている本や、 そのコピーをして 次の本を

 作ったのか、同様の内容の本が多数あって、当時 いったいどうだったのか

 調査をすることにしたのである。

 
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 【 参考押型 備前国住長船勝光宗光 備中於草壁作 文明十九年正月日】




   この調査は 随分大切な事で、 日本刀の世界では有名な重要美術品の

 草壁作と銘がある 勝光、宗光の合作の作品などが、ここ 草壁で作られたと

 されていて、 もし、ここが穂井田の庄という事になれば、 それを訂正すること

 になるからである。


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   当時、 ずいぶん遠回りしたり、 いろいろ調査すると、 実は、その本は

 間違いであって、 本当は、 草壁庄は草壁庄のままで、穂井田郷 という場所

が、東に行くと、 小田川添いに東に進むと、服部 という場所があり、そこから

谷にそって、山陽自動車道 玉島インターチェンジ方向の南に進むと その周辺が

 その昔、穂井田郷 と呼ばれていたらしい。

 その場所は、 どこであったのか、 現地を訪ねて捜してみたのである。



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       【 穂井田郷 跡 より 北を撮影する。 左 穂井田小学校  】



  小さな川を中心に 谷沿いに集落が続いていて、 ここを昔 穂井田郷と

  言う地名で呼ばれ、現在もその地名が残っていたのである。



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      「 今、 ここが 穂井田 という 地名であるから、 室町時代がそうで

     あるという保証があるのか。」 と 言われると、 それは無いのであるが

     地元では、大昔から、ここが穂井田であるという言い伝えや、 中世の

     絵図にも、 この周辺が 穂井田 となっているのである。




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                   【 穂井田の谷を流れる 真谷川 】


   現在も、 この真谷川の西岸に、穂井田小学校とか、穂井田という地名がある。

 ちょうど、猿掛山城方向から数キロ 東に進んだ場所となっていて、穂井田 實政

 の穂井田 と言う名字は、 地名であったと思われる。

 そう言うわけで、 数冊の本に、 「猿掛山城の周辺が 穂井田庄でーー云々。」と

 紹介されているのは、現地を調査せず、 間違った文献を、そのまま 参考にして

 次の本を作っていったがために、 そのまま、 定説になって行き、 草壁庄から

 穂井田郷への 経緯などは不明とされていたのであるが、 庄 高資  が、

 猿掛山城から、備中松山城に本拠を移して、 その城代として、 城の東側

 数キロ程度行った場所の穂井田郷の領主、穂井田 實政 が家老として、城を

 守っていたと するのが 正しいようである。



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   紹介した、 庄氏、穂井田氏などの軍事拠点 ①、②を しっかり押さえて

 いれば、東には進めないはずで、 どうして、わざわざ 軍事拠点を出て、2キロ

 程度西の 河原の矢掛に出陣する必要があったのか、 なぜ 城や陣地から

 危険な 河原に部隊を動かしたのか、 その理由を当時考えて見たのである。


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  室町時代の当時を想像すると、 堤防はなく、河原で、 山陽道添いに山が

 迫り、 道が狭くなり、 大勢で寄せてきても、 少人数しか通ることが出来ない

 場所、 ここ三谷の河川敷を合戦の場所とはせずに、 西に撃って出た、その

 理由は何であったのか、 当時 考え至ったのが、 穂井田 實政の 合戦の

 つまり、作戦の目的は、この猿掛山城を防衛する事も大切だったのであるが

 それ以上に、大切であったことと言うのは、 毛利勢が、 三村勢と合体する

 事を防ぐ目的が優先されて行ったに違いないと思う様になっていったのである。




  つまり、「 毛利の軍勢を足止めする事。」  これが 作戦の目的であった。





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   当時、 備中国の北部には、 新見氏や、庄氏が 三村氏と死闘を

  繰り広げていて、ここに毛利勢の援軍が三村氏側に加わると、形勢が多いに

  不利となって行くため、 城を出て、 毛利勢を 援軍に行かせないようにする

  ことが、 当時の1番の作戦の目的であったのではないかと思う様になって

  いったのである。



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    上の地図の ①と②の城と陣屋から、 矢掛の河川敷に出陣していった

    しかし、 猿掛山城や、三谷の陣屋の守備兵力が必要で、 自分が指揮官

    ならどうしたであろうかと、現地を歩いて見たのである。


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   いろんな人の説があって、 おおよそ平均、一万石あたりの兵力が250人

 前後と言われていて、 この地方の石高を参考にすると、 穂井田勢は、1000人

 程度、 庄氏の増援が 500人程度、 川の東の、 石川勢が300人程度、

 高橋勢が200人程度、 総勢 約2000人の軍勢で、 内、 猿掛山城と

 三谷陣屋の守備隊が 500名 後陣として残し、 前衛と後陣の補給部隊とその

 護衛部隊が200名を置いて出たとしたら、 実際 矢掛に出陣したのは、1000

 名から1300名程度ではなかったであろうかと当時推測したのである。



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  当時 20才前後の 吉川 元春を 総大将とする、安芸、備後の軍勢は、

 前話で紹介した場所に布陣し、 矢掛に進撃した場合、 筆者が指揮官で

 穂井田 實政 であったらどう、兵力を配置するかと言えば、 それは茶臼山

 に陣を張り、 ここを拠点に防御陣地を構築して、相手を迎え撃つであろうと



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  当時考えたのである。

  現在も南は川、 矢印の部分が道が狭く、 茶臼山の崖がせまり、 地形を

  上手に利用して、矢板を連結し、馬防柵を 数カ所 設置するだけで、相手は

  1度に大人数で攻めることは難しい地形である。



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                  【  南西方向から 茶臼山を撮影する。】


      この茶臼山の地形と、川の流れを上手に利用すれば、 飛び道具は

    弓程度の時代、 小規模な兵力でも、矢の補給などが切れない場合は、

    互角に勝負が出来る そういう地形であると考えたのである。



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      おそらく、ほぼ間違いなく、 穂井田の軍勢は、ここ茶臼山に陣を

     おいたに違いないと 当時考え、 その周囲を歩いてみたのである。



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                【 正面が 茶臼山 】


   当時、堤防などは無かったとして考えて、川幅が現在より広く、そして

 低地で、河川敷のような場所で、現在のように橋も無かったであろうと思い

 現在工事中の 右端の法面の張コン擁壁の工事現場に向かって、すぅっと、

 道路が狭くなっていて、 当時の山陽道がどこを通っていたのか、不明瞭な

 部分が多いのであるが、 この山に陣を張れば、 攻めるのは、難しい地形

 
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【 右は小田川、 左は茶臼山の崖、 道が狭くなり、陣地にはよい場所である。】



  で通りにくい場所である。

  当時、 そんなことを考えながら、 すれ違う人には、変人を見るような

  そんな 冷たい視線を浴びながら、 室町時代の天文頃は、この矢掛の

  町はどんな姿であったのか、 どこが戦場であったのか、 どうして関ヶ原

  の合戦のように、短期間で どちらかが負けなかったのか、 どうして、1年

  以上も長引いて、 決着が付かず、 毛利元就が出て来て、和議となって

  行ったのか、 そういう調査を行った事を次回紹介したいと考えている。



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   【 来週に続く。】

第320回 日本刀 備中国矢掛の合戦と国重刀工を考察する。4 納屋 助左衛門

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第320回 備中国 矢掛の合戦と国重刀工を考察する。4


                               2018年1月21日日曜日




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  この投稿文は、筆者が以前、自ら調査した事を論文にまとめていたものを

少しずつ投稿と言う形で世間に紹介していくもので、 当時の資料や、写真を

再度 上から撮影していたりして、 見苦しい箇所については御寛恕をお願い

したい。



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 第188回から、 国重刀工の源流の 青江刀工の調査のお話しを紹介していて、

興味のある人には、 よかったら 閲覧する事をお薦めする。



   今週のお話しは、 備中国 荏原住 国重 と 銘を切る 初期の古国重と

 分類される 刀工と、 安芸の国の 毛利氏との雇用関係がいつ頃発生して

 行ったのかという 大切な出来事の、備中国 矢掛【やかげ】の合戦について

 考察する 第4回目のお話しである。


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  第1回目は、 その合戦の時代の背景、 そして 第2回目は、毛利氏の布陣

  について、そして 第3回目は、相手方の 尼子方の庄氏、穂井田氏、石川氏

  などの連合軍の布陣のお話しを紹介させていただいた。

  それを基に、 どうしてこの合戦が決着が付かず、 毛利元就の軍事的調略で



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   1年数ヶ月後に 和議 つまり 和平工作が成立して行ったのかを考察した

  お話しである。



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           【 天文21年 矢掛の合戦 毛利連合勢の布陣図 】


   西暦1600年 慶長5年の関ヶ原の合戦は、わずか 数時間で決着がつき

  西軍が壊滅し、逃走することによって、終わったが、 理由は両者が全力で

  ぶつかり合い、 南宮山と松尾山に布陣していた毛利勢【吉川、小早川】の裏切り

  によって、 西軍が崩壊していったのである。

   約7万人、 約8万人もの軍勢が激突した事案と比較し、 この矢掛の合戦は

  圧倒的に、西軍 こと 毛利勢が軍勢が多く、 どうして 1年以上も長引いて、

  双方が対峙して、 和平になって行ったのかを考えて見ると、 やはり現地を

  歩いて 当時を 想像してみるしか当時は方法が無いと考え至り、現地踏査を

  行ったのである。



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  【 東軍こと、庄氏、穂井田氏、石川氏などの陣地と推測される 茶臼山】




  上の写真の茶臼山の西側、 ここが当時の合戦の激しかった場所ではと

 推測しながら、小田川の河川敷の堤防の上の道路に立って 当時 考えてみた

 のである。



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             【 天文21年 矢掛の合戦の初期の両軍の布陣図 】



   毛利元就の次男 吉川 元春の軍勢と 合力の備後の軍勢と対峙して、

   合戦に及んだのは、おそらく1000人程度の兵力の 穂井田 實政 という

   備中 猿掛山城の城代家老であったと言われていて、 対する 毛利勢の

   先陣は、 備後国の豪族、杉原 盛重、 第二陣の神辺城 城主 山名 理興 

   の 軍勢であったと推測される。


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  室町時代の当時、現在のような堤防や、橋などはなく、河川敷の草原のような

大雨が降ったら 浸水して 川の濁流となるような、低地であったと考えられ、

川の浅瀬を渡河して、 茶臼山に備後勢は兵力を進めたと考えられる。


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    実際 攻め寄せた、備後国南部の 杉原及び山名勢、約千名程度の兵力と

 相対した、穂井田 實政の連合勢、約千名は、防備に徹して、 撃って出ず、 

 矢板を連結して、 矢で応戦し、茶臼山の 西側で膠着状態になっていったと思

 われる。

  この合戦がどうして短期で決着がつかなかったのか、 その理由は何であった

  のか、 考えて見たところ、 戦意が低かったというか、 付き合いの合戦であった

  からではないか、 命を捨てて、 全滅を覚悟で、 突進する合戦とは違っていた

  のではと、調査するに従って次第に筆者は考えるようになっていったのである。



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 毛利方の本陣の吉川勢、 約1000人程度、 2年程度前に、当主と跡継ぎの

 幼少の子供が 毛利元就に殺害され、 元就の次男 元春を押しつけられ、

 忠義を叫んで異議を唱えた 忠臣は殺害され粛正され、仕方なしに 無理矢理

 出陣させられて、遠い行ったこともない備中国に出陣してきた、 義理も何も無い

 顔も見たこともなく、話しもしたことのない、三村氏への援軍、 本気では無かった

 のではと推測する。

 一緒に 続いて来た、 備後国の三原 小早川の軍勢も、盲目の当主が殺され、

 毛利元就の3男 隆景を押しつけられ、 忠義をさけんで、それに異議を唱えた

 田坂氏などの実力者の家老は粛正され、 こちらも 付き合いで 仕方なしに

 備中国に出陣してきたと思われる。




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   結局、 この山陽道を西から東に兵を進めてきた 軍勢は、毛利の目付の

 家臣をのぞいて、 そのほとんどが 他人の軍勢で、自分が合力しないと、毛利

 に攻められたらいけないので 本領に 半分程度守備兵力を残して、 格好を

 付けるために 出陣してきた寄せ集めの兵力であったと推測される。

 それ故、 本気で 全力と、全力が激突する合戦には発展せず、お互いが、木で

 馬防護柵を構築して、 矢板を連結して 野戦陣地を構築して にらみ合いをする

 ような 合戦になっていったと 考えるのが妥当ではないかと思ったのである。



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                  【  現在の 矢掛の町 】



    数年後の弘治の頃、 陶氏と毛利が激突した、厳島の合戦での 毛利勢

  というのは、本隊は2千人程度の兵力であったと言われていて、 天文の頃の

  当時、西に 大内氏を倒した、陶氏、 北には 尼子氏があって、本領の守備

  兵力を動かして、 遠い 備中国の三村氏を支援する余裕はなく、仕方なしに、

  毛利元就が書状を書いて、 次男の吉川 元春を名義人にして 1000人程度

  の吉川勢を東に出発させ、 途中の道中で、 付き合いの合力の兵力を加えて

  4千人程度の軍勢であったものの、 その補給は、 備後国 神辺城の山名氏

  や、備後の杉原氏の残党の兵力に依存し、組織として 強力な軍勢ではなかった

  所詮、 他人の寄せ集めの兵力であった。

  先鋒の 杉原勢も、尼子氏に攻められ 本領を失っていた勢力が 数年前

  毛利の合力でやっと領地を取り戻していた、そんな軍勢で、強力な軍事組織

  では無かった。

  そして、 神辺城も、数年前まで尼子氏の配下であった 山名 理興が、尼子氏

  を見限って、保身のために、毛利氏の傘下に加わった、そんな感じの当時、身を

  捨てて 突撃していくような、 そんな軍勢ではなかったのではないかと思う様に

  なっていたのである。

  また 組織自体も寄せ集めで、 軍事組織としての統一行動や、合図、用兵

  方法も それぞれの家中で別物で、一緒に作戦行動を行うようなことは、

  訓練が出来てなかった、 練度が低かったと当時は推測したのである。 



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    当時、1番の消耗品で、必需品は 弓矢の矢、 そして 矢じりが大量に

   必需品で、 この矢掛の合戦で、双方が、これらの調達に力を入れていた

   と推測され、 長対陣で、近くで調達することが求められ、 吉川勢などが

   利用するようになっていったのが、西の数キロ先に住む荏原庄の国重刀工

   ではなかったのか、 こうして合戦の特需で、国重刀工と、西軍の吉川勢

   などの 毛利方との取引というか、雇用関係が始まって行ったのではないか

   と現在 推測しているのである。


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          【 毛利元就の次男 当時20才の 吉川 元春 】


    ところで、 他人の軍勢を多数引き連れ、 若干 20才であった 吉川 元春

  らの毛利勢は、長対陣となって行ったのであるが、 援軍を要求していた 三村

  元親は、 いつまで待っても 援軍が来ないので、 再度 毛利家に早く援軍を

  要望する書状を 毛利元就に対して密使を送って催促していったようである。



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   毛利が支援するというので、 尼子氏を裏切って、毛利元就と手を組んだ

  三村 元親は、 尼子氏の逆鱗にふれて、 北からは宿敵 新見氏と尼子の

  連合軍に圧迫され、 東からは、 尼子方の 庄 高資の 備中松山勢に

  攻撃され、 北東の植木勢なども加わって、 防戦一方となっていたようである。



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  こうして 毛利元就は、三村元親との約定から、仕方なしに 守備兵力を残して

 自ら出陣して、備中国に 少数の兵を転進させていったようである。

 こうして、備中国 荏原に 毛利 元就が本陣を構え、 国重刀工と接触して

 いく 始まりとなって行ったというのが、筆者の平成に入ってからの研究の推測で

 ある。

 非常に推測ながら、 信憑性が高く、 それまで 光を当てて 考察する日本刀の

 研究者はいなかったのであるが、 ほぼ 間違いのない 国重刀工と 毛利氏との

 接点の始まりであったと推測する。


   これを、「 国重刀工と毛利家の矢掛の合戦 主従開始説。」と呼んでいる。

 

次回は、その後の出来事を考察したことを紹介して行きたい。



 
 
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     天気予報によると、明日から日本列島は冷え込むそうで、愛刀家の諸氏

   には、温かくしてお過ごしいただきたい。

   
   【 来週に続く。】


第321回 日本刀 備中国矢掛の合戦と国重刀工を考察する。5 納屋 助左衛門

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第321回 備中国矢掛の合戦と国重刀工を考察する。

                              2018年1月27日土曜日



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  この投稿文は、以前筆者が自ら歩いて調査した事を論文にまとめていたものを

少しずつ世間に紹介していくものである。

当時の写真、資料を再度上から撮影していたりして、見苦しい箇所については、

御寛恕をお願いしたい。



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  第188回から、国重刀工の源流の 青江刀工の調査のお話しを紹介していて

興味のある人には、よかったら、閲覧をお勧めする。




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        【 天文21年 備中国矢掛の合戦の 東西両軍の布陣図 】


 今週のお話しは、 国重刀工と安芸の国の大名の毛利家との雇用関係が始まって

いったと思われる出来事の備中国矢掛の合戦の後半を考察したお話しを紹介したい。

1年ほどが経過した、天文22年 【1551年】頃、 援軍を求めていた 三村 元親の

要請に応じ、毛利勢の本隊が備中国に援軍にやってきて、和議となったという事柄

について考察してみたい。



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   当時、 どうして 毛利元就が相手を攻め滅ぼしてしまわなかったのかと、

 研究して見ると、それが出来なかった。

 「時間と、兵力と物資が無かった。」と言う一言に尽きるようである。

 前年の 天文21年に発生した、備中国矢掛の合戦は、なかなか決着がつかず

 膠着状態となり、 その間の食糧、武具やどの物資の補給と、その軍事費用が

 当時の毛利家や、吉川家や、小早川家、備後の杉原家や山名家を圧迫していた

 同様に、 相手方の、 尼子方の 庄氏、新見氏、穂井田氏、石川氏、高橋氏、

 植木氏なども同様で疲弊していった、 そして、あてにしていた、山陰の大名の

 尼子氏の援軍が限定的な小規模なもので、当時関係者を困惑させていたよう

 である。



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  当時の記録には、「天文22年 毛利 隆元と毛利 元就の軍勢、備中国 井原

に着陣する。」と、文章があるだけで、 その他の資料は皆無である。

2年後の弘治元年の陶氏との合戦で、毛利勢は兵力2千騎で出陣したとあり、

このお話が事実であるとすると、 備中国への毛利勢の援軍は同様の数字か、

もしくはもっと少なかったのではないかと推測する。

 どうしてかというと、西の周防国【山口県】の陶氏が攻めてくる事を考えて、

 安芸の国に守備兵力を残しておく必要があり、 北の出雲の国からの尼子氏

の進入にも備えて 守備兵力を残しておく必要があり、 そうすると、2千騎も用意

が出来なかったのではないかと、推測してもおかしくはないと考えるのである。



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仮に、 毛利の本隊の軍勢が2千騎であったと仮定して、 それまで矢掛に布陣

していた、吉川の軍勢と、備後の国の諸将の軍勢を入れても、6千騎程度となり、

言い伝えの 2万数千騎というお話しは、信憑性に疑問が生じる。

 そして、この仮に6千の兵力が、毎日食べる食事、飲料水、武具を調達すると

なると莫大な軍事費が発生し、 毛利家を圧迫していたようである。


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    ところで、 矢掛から遠く離れた、井原に着陣した、毛利本体は何を考えて

  井原に陣を構えたのか、 当時 ここが補給の拠点であったに違いないと思う

  ようになり、 ここに毛利本隊が陣を構えることで、 国重刀工との取引が始まり

  初めて安芸の国の毛利氏の関係者と顔を合わせるようになっていったと思わ

  れる。

  江戸時代が終わり、明治の近代、戦後の昭和、平成と時代は流れ、国重刀工

  と毛利氏の関係について研究した人は数が多いが、具体的証拠というのは、

  また 後日紹介するが、 この天文より少し後の永禄の頃の禄高を示す資料

  が毛利家に残されていて、2名の名前が書き残されているのである。

  これが、唯一の証拠資料ながら、 その雇用関係の始まりについては、長い

  間不明の、よくわからない事案とされていたのである。

  当時の世相や、経済や、物流や、いろんな事を総合して考察していくと、御刀

  だけ研究していて、わからない事についても、 少しずつわかってくるのでは

  ないかと考え、 当時この矢掛の合戦について、現地を歩いて、室町時代を

  想像して、 考察していったのである。


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              【  岡山県倉敷市玉島町 穂井田の庄跡 】


   ところで、毛利元就が 天文22年にまとめた、謀略的和議とは何であったの

 か研究して見たところ、 備中国 猿掛城の城代の 穂井田 實政に対して、

 養子縁組を行う事であったと言われていて、 敵対していた、三村 元親の長男

 を穂井田 實政の養子、 つまり三村家の跡取り息子を 人質に出すことで、和睦

 し、 三村家は、穂井田と以後、合戦に及ばないという、和睦の条件であったそうで

 ある。


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                    【 備中国 猿掛山城 跡】


 見方を変えると、 穂井田家は、当主 實政が死去した場合、 三村 元親の長男

が猿掛城と その周辺の領地を相続することになり、三村 元親の傘下に入ること

になって行ったようである。



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                      【  備中国 草壁の庄 】


 こうした経緯で、 備中国矢掛の合戦は終わり、 三村 元親と、敵対していた

穂井田 實政は、毛利元就の和睦工作で、 親戚となり、 協力関係を開始し、

尼子方であった、 主家の 庄 高資も、和睦に応じて、いつまで待っても援軍を

出してこない尼子氏を見限って、 毛利との和睦に応じ、 ここに、三村、庄、

穂井田、植木、石川、高橋などの豪族が、毛利氏の緩やかな統治の中に組み込

まれていったようである。

 しかしながら、この天文22年の毛利元就の和議に参加しなかった領主がいて


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  それは、現在の岡山県と鳥取県の県境の新見市を本拠とする、新見 貞経で

あったと言われている。

彼は、長年 三村 元親が、約定を破って攻め寄せて来たことに、信用できないと

考えていた様で、 そして、 尼子氏を裏切って、毛利 元就の傘下に入ると、1番

に尼子氏の攻撃を受けることになり、 この毛利 元就の和睦に応じることは、

自らを滅ぼす危険な和睦であると考え、要求を蹴ったようである。

こうして、 天文二十二年、 備中国は、県北をのぞいて、尼子氏の支配から、

毛利元就の緩やかな支配を受けるようになっていった、 そして、三村 元親の

影響力が増していき、 どうなっていったのかと言う事については、また紹介したい。



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           今週のお話しはここまでである。

           みなさんには、寒い日が続いており、風邪などひかれぬように

           温かくしてお過ごしください。


     【 来週に続く。】


第322回 日本刀 備中国 国重刀工の弘治、永禄初頭を考察する。 納屋 助左衛門

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第322回 備中国 国重刀工の弘治、永禄初頭を考察する。

                             2018年2月10日土曜日




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  この投稿文は、筆者が以前、自ら歩いて調査した事を論文にまとめていた

ものを少しずつ投稿と言う形で世間に紹介していくものである。

当時の資料や写真を再度上から撮影していたりして、見苦しい箇所については

御寛恕をお願いしたい。



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           【 備中国 水田国重一門 墓石群  岡山県伊尾山中 】


 第188回から、 岡山県の刀工 国重の源流の青江刀工の調査のお話しから

少しずつ紹介していて、 本に書かれていない、現地を歩いたお話しを 興味の

ある人にはよかったら 初めから閲覧することをお薦めする。



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                 【  西日本の大大名 毛利 元就 】

  ここ数話で、これまで明治時代から平成時代まで、日本刀を研究する人達が

見向きもしなかった、地方の言い伝え、歴史を掘り起こし、可能性をあげて、消去

していく方法で、 天文21年から22年にかけて行われた、備中国 矢掛【やかげ】

の合戦が、 安芸の国の大名の毛利氏の長滞陣が、 毛利氏と荏原の国重刀工を

結びつけ、主従関係を作っていったと、説明をさせていった。

具体的証拠がとぼしいが、 大筋、ほぼ間違いのない出来事と信じる。

 本日のお話しは、その後の弘治 そして永禄と続いて行く 戦国乱世の時代の

国重刀工の 次の世代のお話しをさせていただく。


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           【 毛利家の嫡男 殺害された 毛利 隆元 】



  天文から年号が 弘治【こうじ】に変わり、 厳島の合戦で 毛利氏が陶  晴賢

 を破り、自害に追い込み、 その後、 周辺の小名が 毛利 元就に降伏したり

 傘下に入っていき、毛利氏は 数年で 大 大名に発展していった当時、 元就は

 実権を握ったまま、表面上隠居し、 長男の 毛利 隆元に家督を譲っていき、

 そんな 当時の国重刀工は、毛利氏の傘下に入っていき、主従関係が出来て

 いったようである。


 昭和の終わり頃、 岡山県の北房町史などの日本刀の原稿を手がけた、

 現在の真庭市在住の 南条 健祐 氏 や、岡山県立美術館【当時】の上西

 節雄氏や、 岡山県史編纂室【当時】の田中 修實氏の 毎日こつこつ 少し

 ずつ研究を重ねていった努力により、大変貴重な研究結果が発表され、当時

 多いに注目を集めたのである。



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               【  国重 刀工 墓石群  岡山県 伊尾山中 】



「 毛利家八箇國御時代分限帳九」 と言う毛利家の古文書の中に、国重刀工

と思われる文字が発見され、 その研究によると、次の通りとなる。


                    鍛冶類


   一、 拾石壱升七合 国重 勝右衛門 後月郡

   一、 拾石壱升壱合 国重十介     後月郡


という文字が発見されたのである。

 これらの 毛利家の古文書の記録は、毛利家が国重刀工を雇用していた

 証拠資料として貴重な発見であり、当時、大きなどよめきが国重刀工の

 研究者に広がって行ったのである。

 当時、財団法人 日本美術刀剣保存協会 岡山支部の 中津 勝巳氏らが

 この研究をさらに進めようとしたのであるが、これ以上 よくわからず、世間

 を納得させる証拠資料がこれ以上当時出てこなかったのである。

 中津 勝巳 氏は、 想像や、ねつ造はよしとせず、 わからない事は、わから

 ないとされ、特に 初めに出て来る 国重 勝右衛門 なる俗名の入った作品

 がまったく残っておらず、墓石もよくわからず、生年、没年も不明にて、これ以上

 研究は難しいと、昭和の終わりに結論ずけられたのである。


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  【 備中国 国重刀工の本拠地 荏原【えばら】庄 現在の岡山県井原市 】





 筆者が当時、まだ体調がよく、健康で、朝4時から、夜22時まで、名刺を配り、

 日本全国に日本刀や鍔や小道具を売り歩いていた当時、 この岡山県 井原市

 の荏原の地を歩いて、 古文書を探り、 少しずつ 積み重ねていくと、何某かの

 光明が見えてくるのではないかと、当時 思い、信じ、 お金にもならない研究に

 時間を費やしていったのである。

  中津 勝巳 氏が、さじをなげられた、 解明不明のこの、国重勝右衛門とは

 いったい誰であったのか、 当時、 中津 勝巳 氏のたどられた後を追うように、

 谷川にそって、後を追いかけていったのである。



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          今週のお話しはここまでである。

          最近、大雪が続き、 寒さが厳しいので、愛刀家のみなさんには

          温かくして、 風邪など用心して、お過ごしいただきたい。


    【 来週に続く。】
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